ウルジェの町は、一歩奥へ入ればいたるところに抜け道があった。
 起伏の多い土地柄なのか石段や坂道も多く、迷路のように入り組んでいる。壁と壁に挟まれた狭い通路が、まるで網の目のように町中に広がっていた。
 二人が抜けようとしているのは、その更に奥まった建物の隙間と言える。
 周囲はうす暗く、足元はよく見えない。ひんやりとしており、カビ臭さと腐臭すら漂っている。
 盛んに地面を駆け抜けてゆく足音はネズミのもので、中には平然と人の足を踏み越えてゆくものもいた。
 その度にヒルダは小さな悲鳴を上げ、身を縮めるのだった。

「マグパダ。やはり、陽のあたる道を行こう。前がよく見えない」

 何かぐにゃりとした物を踏みつけたとき、ついにヒルダは我慢しきれずに声を上げた。
 暗がりにどんな生き物が蠢いているのか、必死に考えまいとする。一刻も早く、この場から立ち去りたい。
 しかし、前を行くマグパダは振り返りもしなかった。
 薄闇の中で、声だけが囁くように聞こえた。

「これが一番の近道でしてな。もう少しの辛抱ですぞ。往来を行くよりずっと早いのです」

 少女は気落ちしたように小さな肩を落とした。

「しかし、なぜ、これほどまでに|急《せ》く必要がある?わざわざ、こんな所を選んでまで……」

 山歩きや野宿には慣れもしたが、このような得体の知れない虫やネズミの巣窟は苦手である。
 ヒルダとしてはどこかで旅の埃を払い、できれば風呂にも入るつもりだった。泥のついた衣服と靴で賢者を訪ねるなど、明らかに礼を失している。
 しかし、いつにない硬い口調で、マグパダはその言い分を退けたのだった。
 わからないことは他にもあった。

「おまえはあの時、”気づかれる”と言ったが……あれはどういう意味だったのだ?」

 黒い背中を追いかけながら、ヒルダはマグパダの反応を窺いつつ問うた。
 ”風聴き”の後、滅多に表情を変えぬこの男が妙にこそこそしていたのを覚えている。自ら賢者を捜し出したにしては、どうにも腑に落ちない振る舞いだった。

「もしや賢者様は、私達のことをご存知なのか?おまえのように、”風聴き”の力をお持ちなのでは……?」

 賢者であれば、そのような力の一つや二つを備えているのかもしれないと考える。
 ところが、

「それはありえませんな」

 と、マグパダは事も無げに答えて言った。

「と言うよりも、実に勘の鋭いお方ですな。ことのほか、ご自分の噂話には敏感なのです。気配を察するのでしょうな」
「では、やはりすごいお方なのだな?おまえのように特別な力をお持ちなのだ」
「まあ、極めて繊細なのです。いわゆる”恥ずかしがり屋”ですな。加えて無類のお人よしでもあります」
「そ、そのようなお方なのか……」

 賢者カレイス・ノイの意外な人物像に、思わず声を潜める。
 褒めているようにも|貶《けな》しているようにも聞こえるが、マグパダの真意ほど謎に近いものはない。
 しかし、この男の言うことに間違いはないのだと、とりあえずヒルダは納得することにした。

 やがて、幾度か角を曲がるうちに、滞っていた風が流れ始めた。
 出口が近いことを知らせる光が、わずかながら前方に射し込んでいる。賢者の住まいに近づいていると言う事実に、小さな胸が次第に高鳴ってゆく。

「ここを出れば、すぐにあの方のお住まいがあります」
「う、うん……」
「きちんとご挨拶申し上げるのですぞ」
「わ……わかっている」
「言葉遣いは丁寧でなければなりませぬ」
「ち、父上と同じようにする……つもりだ」

 いよいよと言う思いに、緊張がいや増してゆく。
 暗がりに慣れた瞳に、痛いほどの光が突き刺ささった。

「さあ、こちらへ。ヒルダ様」

 眩しさに目を細めたヒルダの手を、硬く大きな手が取った。ふいと抱き上げられ、そっと地面に下ろされる。
 ヒルダはそろそろと目を開けた。



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