賢者と呼ばれる人々が、普段どのような暮らしをしているのか、ヒルダは知らない。
 ただ、常人では及びもしないほどの学問知識を有し、日々研究や世界の秘密の解明に尽力している尊敬すべき人物だと言うことだけはわかっていた。
 想像の中の賢者カレイス・ノイは物静かで威厳に満ち、世の|理《ことわり》を知り尽くしたような目をしている。
 神殿の壇上で経典を唱える神官などよりも、遥かに神秘的な存在と言えた。

「ここが、賢者様の住まわれる場所……」

 マグパダが指し示した先を見て、ヒルダは驚きとも戸惑いとも取れる声で呟いた。

「本当にここがお住まいなのか?」
「間違いありませぬ」
「そうか……」

 確認するに|留《とど》めたのは、言うべき言葉が見つからないからである。
 ヒルダは酒場や宿が雑然と並ぶ通りにたたずみ、何が起こったのかを考えていた。
 目の前にはアーチ型をした大きな扉がある。そして、そのすすけた壁面から突き出す派手な看板には、このような文字が刻まれていた。

 ”花と蜜の館”

 その名から推測される商売を、知らぬわけではない。旅をしている間はマグパダが師となって、あらゆる疑問に答えていた。
実は以前、”娼館”と呼ばれる店について、ヒルダは単純にどのような店かを問うたことがある。
その時マグパダは、そこで行われる男女の行為について、平然と、実に端的な言葉をもってヒルダに説明したのだった。
 以来、質問には細心の注意をするようになったのだが―――そこが男が女を金で買い、ひとときの悦楽というものに酔いしれる場所だということだけは理解していた。
 ただ、そのようなところへ賢者を訪ねて行くことになろうとは、思いもしなかったのである。

「さ、ヒルダ様」

 いつまでも動かぬ少女に、マグパダが当然のように催促する。
 背を押されて扉へ近づいたヒルダは、はっとして振り返った。

「し、しかし……ここは……」
「”花と蜜の館”とは大袈裟ですが、まあ、典型的な田舎の娼館ですな。危険はありませぬ。ご安心くだされ」

 さらりと受け流される。ヒルダはあたふたと首を振った。

「ち、違う!そんなことではなく……あっ!」

 言い終らぬうちに太い腕が伸び、すかさず扉が押し開けられた。甘い香りが漂う店の中へと押し込められる。すぐ側にいた誰かに、どんとぶつかったとたん、頭上から年配の女の声が響いた。

「驚いた!子供じゃないか!ちょっと、いくらお客でも子連れは困るんだよ!」

 張りのある大きな声に、ヒルダはぎょっとして顔を上げた。
 見れば、マグパダよりもひと回りは幅のある女が、当惑気味に背後を睨みつけている。
 茶色い髪をきれいに結い上げてはいるが、まるで化粧っ気はなく、男のようにがっしりした体格の女だ。

「ここには子守なんかいやしないよ。悪いけど、出直してきておくれ」

女は素っ気無く言い切ると、唖然としているヒルダの肩を掴んだ。くるりと反転させ、今度はマグパダの元へと押し返す。勢いのままに扉を閉じにかかったが、ふと何かが邪魔をしていることに気づいた。
扉の隙間に差し込まれたマグパダの足を見て、女は呆れたような声を上げた。

「どういう気だい!足をどけなってば!」
「申し訳ありませぬ。急を要することでしてな」

マグパダはお構いなしに扉をこじ開けると、図々しく中へ入り込んだ。壁際の長椅子に座り込んでいた若い女たちも、何事かと腰を浮かせる。
素早く一礼した旅商人が、するりとヒルダを引き寄せて前へ立たせた。

「人を捜しておるのです。実はこの子の父親でしてな。こちらにいると聞いて、はるばると国を越えてやってきたのです」



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