女に案内され、ヒルダは建物の中を通り抜けた。
廊下から廊下へと渡ると、やがて炊事場らしき場所へと出る。
かまどには火がくべられ、大鍋からは白い湯気が立ち上っていた。たくさんの野菜が調理台に放り出されたままだが、人の姿はない。
「あら、いないわ。またさぼりかしら?本当に困った人……」
さほど困った様子もなく、ルチアナが呟いた。
戸口で所在なげに佇むヒルダを振り返ると、ふっと赤い口元を| 綻《 ほころ》ばした。
「ごめんなさい。いつもこうなのよ。でも、すぐに見つけてあげる。心配しなくていいのよ」
明るい場所で見るルチアナは、すらりとした体つきの美しい女だった。
艶やかな黒髪と漆黒の瞳を持ち、動く度に良い香りを漂わせる。娼館の一番人気ながら、人を気遣う心優しい女でもある。
しかし、今のヒルダにとって、その優しさは重荷でしかなかった。
自分はカレイス・ノイの娘などではない。全ては賢者にまみえるためにマグパダがついた嘘なのである。やむを得ない理由があるとは言え、ヒルダたちはルチアナの同情心を利用したのだ。
が、かと言って、真実を告げることもできなかった。
今のところ、ヒルダの味方はルチアナだけである。嘘を訂正したところで、彼女は気を悪くするに違いない。怒らせれば、賢者にすら会わせて貰えないかもしれないのだ。
しかも、その賢者に至っては、どうやら素性を隠しているらしい。
ここでは、彼はただの下働きのカレイス・ノイと言うことらしかった。呼び捨てにされ、尊敬すらされないまま、彼もまた真実を隠している。それだけに勝手に暴き立てるような真似だけは絶対にできないのである。
うまく事を運ぶには、マグパダの力が必要だ。だが、彼は側におらず、これから先は自分ひとりで考えなければならない。
ルチアナもまた、自分の成すべき事がわかっているようにヒルダに丸椅子を勧めた。
どこからか数枚のビスケットを取り出して、皿に乗せる。小さなマグを選んでミルクを注ぎ、それらを調理台に並べながら言った。
「カレイスを捜してくるわね。暫くの間、ここで待っていてくれるかしら?」
ヒルダはこくりと頷き、ぎこちなくも小さく礼を述べた。
お菓子を食べるようにと言い残してルチアナが炊事場から消えると、のろのろした動作で椅子を降りはじめた。
「賢者様は……」
ヒルダは自分でカレイス・ノイを捜すつもりだった。
ルチアナよりも先に見つけ出し、なんとしても嘘の釈明と訪問の本当の理由を伝えなければならない。
戸口へ向かったヒルダは、慣れぬ仕草でそろそろと耳を澄ませた。心臓がうるさく鳴りはじめ、遠ざかってゆく足音がよく聞こえない。廊下は左右に分かれており、どちらへ行けばいいのかすら判断がつかない。
焦っていたヒルダは、背後を気にする余裕すら失われていた。
ふいに勝手口の扉が開き、背の高い男が顔を出したことにも気づかなかった。
ばたんと扉の閉まる音で振り向いた時には、男は狭い炊事場へずかずかと上がり込んだところだった。
「あ……!」
初めて見る顔には違いない。
しかし、その特徴や身体つきは、幾度もマグパダから聞き及んだものに違いなかった。
雨雲色の髪。よく晴れた日を思わせる青い瞳。日に焼けた肌は浅黒く、むっつりと眉間に寄った皺が傷跡のように見える―――
カレイス・ノイが目の前にいた。