ほどなくして、列車は駅に着いた。
到着を知らせる鐘が鳴り響き、乗客たちが慌しく席を立ち始める。
さほど大きな町ではないのか、ホームに人影はまばらだった。
男もまた、外套と荷物を手にしてデッキへと向かった。
幾人かの乗客の後に続き、車両を降りてゆく。その後を追うようにしてホームへ走り出たアテカは、その広い背に向かって声をかけた。
「あの・・・ありがとう」
立ち止まった男が肩越しに振り返る。
だが、その視線が重なったとたん、アテカは萎れた花のように俯いてしまった。
「いろいろありがとう。私、大丈夫ですから」
虚勢を張ったのは、これが生まれて初めてのことだった。
「体力には自信があるんです。病気もあまりしたことがなくて、三日くらい何も食べなくても平気だったりします」
助言を受け入れなかったのは自分なのだから。
説得できなかったからと、男を暗い気持ちにしたまま帰したくはなかった。
男は色々と言葉を尽くしてアテカの決心を変えようとしてくれた。
タールへ赴くことの無謀さを説き、望むような結果は決して得られないと反対した。
だが、アテカは頑として聞かず、最後まで首を縦に振らなかったのだ。
(ごめんなさい・・・)
席を立って以来、男は無言だった。
アテカもまた、かける言葉を見出せないでいた。
呼び止めたのは、せめて互いに笑顔で別れたかったからだ。
きっと、二度と会うこともないだろう。
互いに名前すら必要なかったのだ。
だからこそ・・・
「くっ!・・・ははは・・・」
唐突に聞こえたのは笑い声だったかもしれない。
堪えきれないものを必死に我慢するような。
ぽかんと見上げたアテカの目に、姿勢を崩して笑いをこらえる男の姿が映った。
つまり男は・・・笑っているのだった。
「ああ、失礼。少しばかり自分の鈍さが笑えたものだから」
愉快そうに目を細めて言うと、男は荷物を足元に置いて懐から懐中時計を取り出した。
美しい彫り込みのある銀製の蓋を持ち上げ、時間を確認する。納得したようにひとり頷くと、時計を戻しながらアテカの前まで歩を進めた。
「ラクタス」
「・・・?」
「私の名だ」
「え?」
「ラクタス・オールランド」
「ラクタス・・・オールランド・・・」
つられて繰り返すと、男は頷いて返した。
「君の名も教えてくれるかい?」
「え?」
「君の名だよ」
「ア、アテカ・・・アテカ・・・コルレット・・・」
初めの混乱から立ち直れぬまま、アテカはただ呆然としていた。
ほんの少し前まで、男はひどくがっかりした様子だった。
それが突然、雰囲気が一変したのである。
これは・・・?
そんな疑問をよそに、男は満足したように再び頷いて言った。
「アテカ。私はもう行かなければならない。だがその前にひとつ、是非、確認しておきたいことがあるんだ。いいかい?」
アテカは伸びてきた右腕がさりげなく自分の肘の辺りにかかるのを、ぼんやりと眺めていた。
「私は君と会って話をして以来、ずっと気になっていたことがあるんだ」
男は静かに話し始めた。
「初めは若い娘に見られがちな現象・・・というか、照れだろうと思っていた。何しろ初対面だからね。君がタールへ行くと言い出したので、つい、そのことを深く考えなかったんだが・・・で、さっき改めて君の様子を見ていて、ようやくあることに気づいたんだ」
大きな手が、やんわりと腕を掴む。反射的に身を引こうとしたが、腕は掴まれたままだった。
「そのままで」
はっと息を呑んだ次の瞬間には引き寄せられていた。
ぶつかる寸前で身体は止まったが、咄嗟に差し出した手が男の胸に触れてしまっていた。仕立ての良さそうな上着から、ふわりと上品な香りが漂う。
身体が石のように固まり驚きすぎて声も出せないでいると、頭の上から変わらぬ声が聞こえた。
「私の瞳を覗いてごらん。アテカ」
「・・・え?」
「顔を上げて、私を見るんだよ」
とくん、と心臓が音をたてた。
(顔を上げて・・・)
(・・・この人を見る?)
一瞬、胸の中に大きな不安がよぎった。
「ど、どうして・・・」
「君は私の視線を避けていたね。なぜかいつも逃げるように顔を背けていた。そうだろう?」
「いいえ、それは・・・」
「どうかな。私は嫌われているのかな?」
それは、まるで楽しんでいるかのような口調に思えた。知らぬながらも紳士だと思っていた男が突然見せた強引さに、わずかながら怯えた。
「止めて下さい!からかってるんだったら」
「いいや、私は大真面目だよ」
そう言いながら長い指が顎にかかり、くいと持ち上がった。
(あ!)
思わず目を閉じてしまったアテカはどうしていいかわからず、爪先立ったまま身を硬くして男に寄りかかっていた。心臓が跳ね上がり、身が震える。なぜ、こんなことをするのかアテカには全くわからなかった。真意の知れない男が、初めて恐いと思った。
「嫌です・・・離して」
「大丈夫だ。目を開けてごらん」
意外にも優しい声が、耳に届いた。
「ゆっくりでいい。ゆっくり・・・目を開けなさい」
その言葉に押されるように、アテカはそろそろと瞼を持ち上げた。
目に入ってきたのは、強引な態度とはおよそかけ離れた穏やかな笑みであった。
ありえない距離から覗く男の顔はどこまでも優しげで、どこか高貴な雰囲気さえ漂っている。若い娘であれば誰でも好ましく思うだろう、そんな微笑だった。
だが、その青い瞳を凝視することにはためらいがあった。
なぜかわからないが―――これまでもそうだったように―――妙な不安が胸をざわつかせるのだ。
見たくない。
だが、なぜ見たくないのだろう?
ふと、謎を解き明かしたいという思いが生まれた。
それに、このままでは男が手を離しそうもない・・・
ついに、思いきって男の目を覗き込んだ。
琥珀色の瞳に青い輝きが宿る。
美しいと思いながらもその輝きがつき刺さるようで、アテカはたまらず目を細めた。
ざわざわする不安は否応なく増し、逃げ出したい気持ちを押さえ込むためには全身に力を込めねばならなかった。
そして、なおもその奥を見通そうと顔を近づけた時。
青い光に貫かれるように感じた瞬間、目の前が真っ暗になった。
(え?)
何が起こったのか・・・
いつしかアテカは真っ暗な世界にたたずんでいた。
空も地面もない。
自分の手足さえ見えない闇が広がっている。
(ここは?)
戸惑いつつ四方を見回すが、やはり何も見えない。
(夢を見ているの?)
すると、すぐ目の前に白い影が浮かび上がった。
―逃げるのよ!
突然―――その影が、女の声で叫んだ。
喉が裂け、血が噴出しそうな絶叫であった。
―捕まってしまう!
影はそう叫ぶと、泣きながら背後へと消えていった。
(い・・・今のは?)
愕然と見送るアテカの前に次々と白い影は揺らめき現れる。
切羽詰った無数の女たちの悲鳴が、怯えるアテカをさらにおののかせた。
―追いかけてくるわ!
―早く逃げて!
―囚われてしまう!
―あの青い目に!!
恐怖に震え上がり逃げ惑う女たち。
引き裂くような声は風となり、嵐となってアテカを襲った。
(やめて!)
アテカは叫んだ。
女たちの恐怖は今やアテカのものでもあった。
逃げねば捕まってしまう!
だが、走り出したくとも身体が動かない!
(おばあ様!)
たまらずアテカは叫んだ。
「おばあ様!」
気がついたとき、アテカは男に縋りついていた。
汗が滲んだ額を胸に押し付け、ままならぬ呼吸に激しく肩が上下する。
果たして、今何が起こったのか?
わからぬままにはっとして顔を上げれば、そこにはあの女たちを恐れさせた青い瞳があった。
「嫌あああ!」
戦慄は今だアテカの中にあった。
激しく身を捩じらせて、男の腕から逃げようともがく。
そんなアテカに気づいた駅員が、遠くで何事かと声を上げた。
「どうかしたんですか!」
こちらへやって来そうな素振りに、男が何でもないという風に手を上げて制する。アテカはその隙に腕を振りほどいてデッキへと駆け上がった。
「こないで!」
男が追いかけてくるなど思いもよらなかった。
客車へ逃げ込む間もなく、あっさりとデッキの奥へ追い詰められてしまう。逃げ場を失ったアテカは力なく床に崩れ落ちた。
「アテカ」
男は背後で片膝をつくと、その細い両肩をそっと手で包み込んだ。
「ゆっくり息をしなさい。落ち着いて」
こくこくと頷き返しながら、アテカはできるだけ多くの空気を吸い込もうと激しい呼吸を繰り返した。おこりがついたように、身体は寒さでガタガタ震えている。
だが、時間が経つに従い、強張っていた身体から徐々に力が抜け、男の言うとおり気分も静まっていった。肩に置かれた手が、ことのほか温かく感じられた。
「大丈夫かい?」
「はい・・・」
応えたとたん、ぱたぱたと涙が零れ落ちた。
安堵のせいだとわかっていても、とめることができない。小刻みに身体を震わせていると、今度は身体全体を暖かなものが覆った。ほのかに香るものから、男の上着だとわかった。
「すまなかった。びっくりさせたね。こうなることはわかっていたが、確かめる必要があったんだ」
「わかって・・・?」
その口ぶりに、ついアテカは聞き返した。
「君が今見たものを、私は知っているんだよ。正しくは聞いて知っていると言うべきだが・・・恐かっただろう。すまなかった」
全て自分の責任だとでも言うように、再び謝罪を繰り返した。
「ただ、今、そのことについて詳しく話をしている時間はない。だが、このことだけは覚えておくといい。君が見たものは全て過去の記憶だ。君の古い一族が
遠い昔に経験したことで、その想いだけが受け継がれた魂の中に傷跡として残ってしまっている。だから、あれほど私の目を避けていたんだ。君は―――」
そして、男はひと呼吸置き、こう付け加えた。
「君は魔女だね、アテカ」
その時、出発の合図である汽笛が鳴り渡った。
ガタンと大きく車体が揺れる。ついで鉄の車輪がギイ、と重そうな軋みをあげたが、男は焦った様子もなく話を続けた。
「だが、君は君として生きることを学ぶんだ。時代は移り変わり、世の中は大きく変化している。もはや怯え、逃げ隠れする理由も何ひとつないのだからね。だから・・・今後、私のような者の中に悪夢を見たとしても、それは過去の幻影だと理解するんだ。いいね」
「あ・・・」
「タールへ行くといい。思ったところへ・・・私はもう、何も心配しないよ」
立ち上がる気配に、思わず振り向こうとして躊躇する。記憶は今だ生々しくアテカの心を蝕んでいるようで、引き止めようとするが声が出なかった。
聞きたいことはいくらもある。
自分が見たものも、男の言葉も、何ひとつわかってはいないのだ。
頬を濡らし、のろのろと振り返ったアテカの目に、デッキから今にも飛び降りようとしている男の後姿がうつった。
(待って!)
叫んだつもりだったが、声にならなかった。
最後に男はちら、と背後を気にかけ、
そうして、あっけないほど簡単に流れ始めた景色の中へと吸い込まれていった。