故郷の村を出て、二十日余りが経つ。
新天地での旅は、アテカにとって毎日が新鮮であり、驚愕することだらけだった。
道も、建物も、小窓を飾る花々でさえ、初めて目にするもので溢れている。
煌かな夢に迷い込んだ旅人のようだと、何度思ったかわからない。
だが、新しいものを知る喜びにも増して、無知から来る勘違いや失敗の数もまた多かった。
心無い者から嘲られ、羞恥に身を焼いたことも幾度となくある。
それでも、特に思い煩うことなく今日までこれたのは、すべてが自己責任で片付くことばかりだったからだ。
言うなれば、つけを支払うのが自分自身である限り、大概のことはすんなりと諦めがついた。 スープの皿をひっくり返したからといって、自分さえ我慢をすればそれで問題はないのである。
ところが、今回は違った。
* * *
セロース駅を発った列車は、終点タールを目指して更に西へと進んだ。
途中いくつかの駅に立ち寄りながら、夕方近くには目的地へ到達する予定である。
車窓から見える景色からはすでに人家や小麦畑といったものは消え、緑一色の草原に移り変わっていた。
そんな光景を、琥珀色の瞳にたとえようもない不安の色を滲ませてアテカは見つめているのだった。
(どうしよう・・・)
セロースを離れて、小一時間は経っている。
だが、その間中、アテカが考えていたことと言えば、いかにしてもとの場所に戻るかということだった。
今まさに、空から大きな手が舞い降りてひょいと列車をつまみ上げ、セロースに戻してはくれないかと真剣に願っているのだ。勿論、そんなことは起こりようもないのだが、刻一刻と過ぎてゆく時間と離れてゆくばかりの距離に、焦りはつのるばかりなのである。
(どうすればいいの…)
アテカはまるで回らない頭をなんとか巡らせようと努力していた。
本来ならばあるはずのない物を膝の上に抱えながら…
すると、いい加減呆れたとでも言うように目の前の座席から声が飛んだ。
「だから何度も言ってるじゃないですか?気にしなくていいんです。勝手に置いてったんですからね。なんでそんなに悩んでるんですか?」
さもわからない、という具合に小首をかしげているのは、見たところ14、5くらいの少年である。
ゆったりした黒の綿シャツに黒の吊りズボンといった装いで、ゆるやかに巻いた髪もまた漆黒であった。何にでも興味を示しそうなきらきら光る瞳は澄んだ若葉色をしている。
「仕方ないじゃないですか。あなたが悪い訳じゃないんだし。それに、乗り換えて引き返したところで、もうどこに行ったかなんてわからないんですよ?」
少年は慰めとも諦めともつかぬ言葉を繰り返しながら、ちらちらとアテカとその膝の上の物体を交互に眺めた。
「だから諦めましょうよ。悩むだけ無駄なんですから。あ、そうだ。いっそのことそこの窓から捨てちゃえばいいんです。そうしましょう!」
思いついたように少年は自分の膝を叩いた。そうして、躊躇することなく綺麗にたたまれたクリーム色の上着に手を伸ばした。
「だ!だめー!!」
自分でも驚くほどの声を出し、アテカは咄嗟に上着を抱え込んだ。
驚いたのは少年も同じのようで、ぎょっとしたようにのけぞった。
「あ、びっくりした…やだなあ、冗談ですってば」
悪戯を咎められた子供のように、ぺろりと小さく舌先を覗かせる。その少年っぽいあどけない仕草に、アテカはぐっと怒りたい気持ちを抑え込んだ。
「あなたには関係ないでしょ。子供は意味もわからずに他人の事情に口を出すべきじゃないわ。さっさと自分の席に戻ったらどうなの?」
すると、少年はきょとんとした顔から一転して、にこりと笑った。
見せつけるように深く椅子に座り直し、器用に片目をつぶってみせる。
「終点まではここがぼくの席ですよ。アテカさんみたいな人が一人旅なんて危険すぎますからね。ぼくって、こう見えて何かと役に立つんです。なんでも言いつけてください。あ、それと、ぼくの名前はデシムですって、さっきから言ってますよね。ちゃんと名乗ったからには、『あなた』はやめてほしいなあ」
礼儀だと言わんばかりの言い方に、アテカは更にむっとして少年を睨みつけた。
「じゃあ、デシムさん。だから、どうして私があなたの…デシムさんのお世話になるのかしら?私はあなたより年長者だし、誰かを頼る必要もないのよ。そうでしょう?」
「必要があるから言ってるんです。年上って言ってもそんなに変わりませんよ。それに、人生経験は絶対にぼくの方が上ですもん。第一、さっきだって…」
そう言いかけて、突然デシムはぶふっと吹き出し、慌てて口元を押さえた。
「だってアテカさん、さっきセロースに戻ってくれって、車掌に頼んでたじゃないですか。蒸気機関車ってのは線路の上を一方通行で走るものなんですよ。戻りたければ車線と列車を乗り換えるしかないんです。第一、前へ動くしかない動力でどうやったら後ろへ動くんです?線路を逆走ですか?ありえませんって!」
その言葉は、すっかり忘れていた醜態をアテカの胸に甦えらせた。
知らなかったことだと何度も自分に言い聞かせるが、呆れかえったような車掌と周囲の乗客の失笑を思い出し、羞恥で身体が熱くなってゆく。
列車は前にしか進まないものだと、今日初めて知ったアテカであった。
しかも、その騒ぎを見ていたらしいこの少年が、それ以来どういう訳かずっと側を離れないのである。聞けば少し前から同じ車両に乗り合わせており、アテカらの会話もそれとなく聞こえていたらしい。
「い、いいのよ。もう、済んだことなんだから。そんなことより、これを…」
アテカは上着をそっとさすった。
あのセロースの駅で、ラクタスが自ら脱いでアテカに着せかけたものである。しかも、それを残したまま、汽車を降りてしまったのだ。気づいたときにはすでに遅く、セロース駅は遠く離れてしまっていた。
そんなアテカの様子をじっと見ていたデシムが、つまらなそうに尋ねた。
「さっきの人とアテカさんって、どういう関係なんです?」
「え?」
「あなたたちが初対面だって言うのは知ってます。すぐ後ろの席で聞いてたんですから。でも、ホームではずっと親密そうだったじゃないですか。いったい何を話してたんです?」
「何をって・・・ま、まさか見ていたの?」
まごつきながら問うと、特大のため息と共に気の抜けた返事が返ってきた。
「何言ってるんです・・・あれだけ目立つことしてれば、誰だって注目しますよ。まあ、絵にはなっていましたけどね」
やれやれと言う様に、肘掛を枕に長々と座席に横たわる。窺うような視線をちらりと投げかけられ、アテカは少なからず頬が熱くなるのを感じた。今から思えば、あのときの二人は親しく抱き合っているように見えたに違いない。事実はまるで違っていたのだが…
謎を残したままラクタスと別れてしまったことは、非常な心残りであった。
彼の瞳が見せたものをもう一度見たいとは思わないが、せめてあれが何だったのかを知りたい。過去の幻影だと言い切った彼の話を、できるならもう一度詳しく聞きたかった。それに―――
(あたしのこと、魔女って言ったわ)
故郷のドーラ村を知らぬはずの彼が、自分を『魔女』と言ったことは衝撃だった。村が近隣の人々からどんな風に言われてきたかを、彼は知る由もないのだから。
女系家族だけで構成されてきたアテカの村は、その特異性のためだけに異質だと噂されてきた。生まれる赤ん坊は全て女児であり、頭から足の先までほとんどと言っていいくらい母親と瓜二つに成長する。外で子供を作り、村で生み育てるというのが慣わしだが、例え父親が違ったとしても姉妹の行き着く先は常に母親であった。
初めて村を訪れるものは皆、ひとつの家から覗く同じ顔の女たちに不気味なものを感じるらしい。それ故、村は『魔女の村』と囁かれていた。
誰も寄り付こうとしない村の女たちは、決してそんなものではなかったのに…
いろいろと思い煩う気持ちが顔に出ていたのだろう。
急にデシムがあることを提案してきた。
「その上着は次の駅の窓口にでも届けておきましょう。返そうにも身元がわからないんですからね。駅員に頼んで、事の次第をセロース駅へ連絡してもらうんです。あとは本人から遺失物の届出がくるのを待つより他ないですよ」
どうやら、アテカの悩みが上着に終始していると思ったらしい。
「駅員さんに?」
「汽車は忘れ物が多いんです。保管所があるほどですから」
成るほどと思いつつ、ラクタスとの唯一の繋がりを手放してしまうことに少なからず寂しさを覚える。それは、再会できるわずかな可能性を捨ててしまうことに他ならなかった。
だが、そうするには大きな問題があった。
「もし、取りに来なかったら?」
「上着は数ヶ月、駅で保管されます。その後は救済院にでも寄付されるでしょう。でも、どう見たって上等な品ですからね。駅員がこっそり酒代に換えるってこともありえますね」
「そんな!やっぱりだめよ。だって、上着にはお金も入っているのよ!」
冗談ではないと、アテカは上着の内ポケットを探り、黒革の財布を取り出した。
へえ、とデシムが感心したように覗き込む。遠慮がちに開いた財布の中へと指が突っ込まれた。
「やっぱり身元がわかるようなものはなさそうですね。無記名の受け取りが二枚と、紙幣が…かなり入ってますね。三千リルはありますよ」
およそこのような紙幣の束をアテカは見たことがない。高価に見えた宝石を換金したときでさえ、買手の付け値は六百リルであった。半分近くはすでになくなってしまったが。
「こんな大金、どうしたら・・・」
何やら考え込んでいるデシムを尻目に財布を元に戻そうとしたアテカは、反対側のポケットに何か堅い物があることに気づいた。
はっとして恐る恐る指を差し入れたところ、何かつるつるした物が感じられる。じゃらりとした感触の物をそっと引き出すと、その先に丸い懐中時計がぶら下がってきた。
ホームでラクタスが時刻を確認していたときの物だと思い出しながら、その高価そうな銀の細工にアテカは目を見張った。
上蓋に職人が丹誠込めて彫り込んだと思えるきれいな模様が描かれていたのだ。
幾重にも重なった優雅な花びらと蔦の意匠が銀の輝きを更に増しているようであった。このようなものを買い求めれば、いったい幾らになるのか見当もつかない。
ずんと心が重くなっていくうちに、どこをどう触ったのか突然、上蓋がぱんと開いた。