「あ!」
 びくりとしたのは最初だけで、アテカの目はすぐに時計に釘付けになっていた。
 きらきらと透きとおったガラスの中で、カチコチと規則正しい音を奏でながら二本の針が仲良く寄り添っている。時間にして三時を少し回ったところであった。時計の文字盤には小さな丸いくり抜きがあって、そこから精巧な機械の動く様が見られるのだった。
 (なんてきれい…)
 思わずうっとりと眺めていると、蓋の裏側にも何かが彫金されていることに気づいた。今度は模様ではなく飾り文字を刻んだようなものである。上下二段になっていて、二段目は短く、名前のようにも見える。だが、装飾用に崩した字体は田舎育ちのアテカにはなんとも読みにくいものだった。
 眉を寄せていると、上からデシムが覗き込んできた。
 「飾り文字ですね。任せてください。え、と…これはまた、随分と熱烈だなあ」
 意味ありげな笑みを忍ばせ、人差し指をちょこんと上蓋に乗せる。
 「ここに描かれているのはレコニアという花です。特に上流階級のご婦人方が自分の秘めやかな愛情を許されざる立場の相手にこっそりと伝えるときに好んで引き合いに出す花で―――」
 「悪いけど…よくわからないわ」
 世情に疎いアテカに、少年はうーんと唸った。
 「要するに、『愛』をしたためた贈り物ですよ。レコニアの花言葉は『熱情』ですからね。愛しい人に添えた恋の花言葉。そして、時計は一日中愛を刻み続ける、ってとこです。気障というか、貴族趣味というかぼくには到底、理解できませんけどね」
 そう言いながら、今度は蓋の内側を指し示した。
 「この最初の行は、『全ての愛をあなたに捧ぐ』とか何とかで、こういった場合の決まり文句のようなものです。それにしても、これって特注品ですよ。軽く一万リルはいきそうですね。すごいや」 
 「一万リル…」
 あっさりと言ってのけるデシムを、アテカは信じられぬという目で見上げた。
 花言葉にまで精通している少年にも驚いたが、時計は女性からの秘めたる想いを込めた高価な贈り物に違いないのだ。破格ともいえる金額を費やしてまで愛を届けたいと思う女性の心に、アテカは胸が熱くなるのを感じた。

 「あれ?どうかしましたか?」
 突然立ち上がったアテカは、デシムの問いかけにも答えず、網棚に仕舞ってあった自分の鞄を荒々しく引き下ろした。蓋を開け、たたみ直した上着と懐中時計を丁寧にしまうと、今度は羽織っているショールのピンをしっかりと留める。最後には緩みかけたブーツの紐をきつく縛り上げた。
 挙動に不審なものを感じ取ったデシムが腰を上げたときにはすべての身支度を終え、デッキへ向かって歩き出していた。微塵の迷いも感じられない動作で内ドアを開けて進み、そのまま外へと通じるドアを開く。轟音と共に舞い込む風がスカートと髪を大きく翻したが、アテカは気にしなかった。
 吹き付ける風の向こうに見えるのは線路脇の赤茶けた土手。その向こうに広がる草原、そして、雲ひとつない青空だけである。
 アテカは荷物を持ったままデッキの端に立つと、何のためらいもなく身を乗り出そうとした。
 だが、すんでのところで腕を掴まれ、そのまま後ろへと引き戻された。
 「な、何考えてるんですか!」
 デシムはそう叫ぶと急いでドアを閉め、ありえないという表情でアテカを振り返った。
 「あんた馬鹿ですか?死ぬ気ですか!」
 「そこをどいてちょうだい。私はセロースに戻るのよ。どうしても、この時計だけでも返したいの」
 アテカは懐中時計の話を聞き、何としても持ち主に返すのだと決意していた。
 愛をしたためた贈り物であるのなら、正当な所持者の手元に戻さねばならない。それなら、ここから引き返した方が断然早いに違いない。線路を辿ってゆけば、数時間後には確実に持ち主のいる町へ着くのである。
 デシムは呆れた声を上げた。
 「馬鹿な……そんなことの為に、怪我をするつもりですか?いいですか。頭を打つとか、足の骨を折るとか…誰だって考えるじゃないですか!」
 「大丈夫よ。跳べるもの」
 アテカはこともなげに言ってみせた。
 「子供の頃から山や谷で遊んできたの。木登りも得意だったのよ」
 「そんなことと比較しないでくださいよ。動いている汽車から飛び降りて無傷ですむハズがないじゃありませんか?」
 「どうしてそう邪魔をするの?どうってことないのよ」
 「どうってことないって……」
 デシムは深いため息を洩らすと、我慢がならぬとばかりに大声を上げた。
 「いい加減にしてください!あなたって人は、どうしてそう目の前しか見えないんです?無謀なんですよ!たかが時計くらいに命をかけるなんて、はっきり言って馬鹿です!」
 怒りのせいか若葉色に見える瞳が、今は深い緑色に変わっている。
 「無茶苦茶なんですよ!返したいならちゃんと真っ当な手順を踏めと言ってるんです!無知にも限度があります!危険を予測する知恵くらい働かせてください!もっと、自分のことを考えたらどうなんです!」
 「考えてるわ!」
 「考えてません!」
 「だから、大丈夫だって言ってるでしょ!なんて分からず屋なの!」
 「あなたに言われたくありません!」
 互いに一歩も譲らず、揺れるデッキで二人は言い争っていた。そんないさかいを嗜めるように、遠くで立て続けに汽笛が鳴り続く。
 いつまで続くかと思われた口喧嘩だったが、先に根をあげたのはデシムのほうだった。
 「ああ、もう―――!」
 突然、デシムはガシガシと乱暴に頭をかき乱した。
 そうして、参ったとばかりに諸手を挙げて降参の意を示した。
 「わかった、わかりました!白状します!みんな話しますから、どこにも行かないでください!」
 唐突に意味不明なことを言い出したデシムは、面白くなさそうに下唇を噛んだ。
 「本当は話すつもりなんてなかったんです。その必要もないと思ってたし・・・でも、黙ってるとアテカさん、何するかわからない人だってわかりましたから。だから言うんですけど」
 「・・・何なの?」
 事情を掴みきれず、アテカは聞き返した。
 「これは嘘でも冗談でもないんですけど、怒らないで聞いてください・・・実はぼく、あの人を知ってるんです」
 「あの人って?」
 「ラクタス・オールランドですよ。名前くらいは聞いてますよね?実は彼、ぼくらの世界では少しばかり有名な人なんです」
 「なんですって?」 
 驚きのあまり、アテカは叫んだ。
 「彼は王都でオールランド商会っていう事業所を経営しています。そこの責任者なんです。多種多様な仕事の斡旋をする会社で、所在地もわかっています」
 「・・・え?」
 「だから、無理をしてセロースなんかへ行く必要はないんです。借りた物の返却はいつでもできるんですから」
 にわかには信じられなかった。
 だが、アテカはデシムにラクタスの名はひと言も告げていない。ホームでの会話も、耳に届いていたとは思えなかった。
 「まさか、本当なの?」
 そうだと頷き返すデシムに、アテカは開いた口が塞がらなかった。それが真実なら、今までのやり取りはいったい何だったというのか。
 そうと知りながら必要な情報を与えず、アテカが翻弄する様子を静観していたことになる。なぜ、もっと早く教えてくれなかったのか?
 「どうして黙ってたの!」
 「どうしてって・・・」
 デシムは前髪をすくい上げ、ばつが悪そうに言った。
 「あの人に頼まれたからです。黙ってたのはぼくの一存ですけどね」
 「・・・あの人って?」
 嫌だなあ、とデシムは淡い若葉色の瞳を細めた。
 「彼に決まってるじゃないですか。ラクタス・オールランドですよ。アテカさんが心配だから、ぼくにタールまで付き添うようにって、そう言われたんですよ」
 「嘘よ!」
 まさか、と思わずにはいられなかった。
 何も心配しない、と言って消えていったのは彼の方ではなかったのか?
 「どうしてあの人があなたにそんなことを言うのよ?」
 すると、少年は天使のような笑顔でにっこりと笑った。
 「雇用主の言うことには逆らえませんよ。だって、ぼく、あの人の会社の従業員なんですから」

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