およそ他人から、そのような眼差しで見つめられたことなどない。
 とくんと胸が高鳴り、驚いたアテカは慌てて顔を背けた。
 「あれ、アテカさん?」
 どうしたのかと|訝《いぶか》る声に、思わず耳の辺りまでが熱くなる。
 そんな自分に唖然としつつ、アテカはそそくさとその場から離れた。
 年下だとばかり思っていた少年が見せた熱い視線に、思いもかけず顔が上気してしまったのだ。
 「アテカさん!」
 自分を呼び止める声に振り向くこともできず、見知らぬ町並みへと駆け出してゆく。不審に思われたであろうが、赤くなった顔を見られることはひどく恥ずかしかった。鞄のことがちらりと頭を掠めたがそれどころでもない。
 大きく枝を伸ばした街路樹の下までやってきたアテカはようやく足を止め、いくつかの深呼吸を繰り返した。
 流れ来る風が頬に心地よく、動揺していた胸の内も、徐々に平静を取り戻してゆく。そうしながら、少年の大人びた雰囲気に戸惑い、子供のように逃げ出してきたことを今更ながら後悔するのだった。
 元々故郷の村からはほとんど出たこともなく、ましてや女だけの中で生まれ育ったアテカにとって、男性はまだまだよくわからない存在だ。
 たまに薬草を売りに行く近隣の村の男たちは、皆、無骨で口数が少なく、にこりともしない。
 旅に出たことでそれなりに接することも学んだが、今回のようなことは皆無といってよかった。
 (だめね・・・こんなことじゃ)
 ふうっ、と大きなため息をこぼして振り返ってみれば、いつからそこにいたのだろう。すぐ後ろで鞄を肩に引っさげ、くすくす笑うデシムの姿があった。
 「やだなあ・・・逃げないでくださいよ」
 「に、逃げたりなんか・・・してません」
 事実ではない言葉に、後ろめたさが混ざる。デシムはそんなアテカをちらりと眺め、嬉しそうに目元を緩めた。
 「逃げてますって。ふふ・・・アテカさん、かわいいんだ」
 「ば、ばか!からかわないで!」
 再び熱を蒸し返されて、かっとなる。
 そんなアテカの元へ、なぜかデシムは持っていた鞄をぽんと渡した。
 「え?これ・・・」
 「ちょっとそれ、持っててください」
 そう言うと、何をするつもりなのか、おもむろに二、三歩後ずさった。
 そうして、アテカの目の前でいきなり後ろ向きに大きく身体を反らせたのである。
 「あ!」
 それは一瞬ともいえる出来事だった。
 不安定な石畳の上で、デシムは全身で弧を描きながら反り返り、地に両手をついた。そうして反動で足を引き寄せながら、緩やかな後方回転を行ったのだ。そして今度は足が地に着いたとたん勢いよく背後へと跳躍し、空中でひねりを加えたみごとな一回転をやってのける。そして、まるで木の葉が舞い降りるように、ふわりと身軽に着地を決めたのだった。
 「まあ!上手だわ。デシム!」
 猫のように身体をしならせた美しい演技に、アテカは思わず拍手を贈った。
 どこかの町で見かけた曲芸師の一団が、人々を集めてこのような華麗な演技を繰り広げていたことを思い出す。だが、素人であるはずのデシムの方が、いとも簡単にやってのけたように見えたのが不思議だった。
 デシムは姿勢を正すと片手を胸に置いて深々と一礼した。
 やがて、得意げな顔でアテカの元へ戻った少年は、畏まりながら再度お辞儀をした。
 「アテカさん」
 極上の笑顔とともに、目の前にすっと片手が差し出される。
 「え?」
 その様子にしばし目をしばたたいていたアテカだったが、はたと思いついたようにベルトに通した皮製のポシェットをまさぐり始めた。
 「ご、ごめんなさい。気がつかなくて・・・あたしったら」
 蓋を開け、焦りながら中の巾着を取り出そうとする。
 そう言えば、曲芸師が演技を披露し終わった後、観衆からいくばくかの金銭を集めていたのだった。技術を養うにも努力と時間が要る。それにつり合うだけの対価は求められて当然なのだ。 見てしまったからには、ただ見は許されないのである。
 すると、聞き覚えのある特大ため息がまたもや聞こえた。
 見ると、両膝に手をついてがっくりとうな垂れるデシムの姿があった。
 「アテカさん。もしかして、ぼくに”おひねり”をくれるつもりですか・・・・・・」
 一気に力が抜けてしまったような声である。
 「もういいです。少しでも期待したぼくが間違ってました。言っておきますけど、ぼくが欲しいのは小遣いじゃありませんから・・・」
 「え?そ、そうなの?でも、少しならあげられるのよ。せっかくだから・・・」
 「・・・いりませんよ。そんなの」
 疲れた声でそう言い捨てると、アテカが財布代わりにしている巾着を無理やり元に押し戻した。
 「それより、そろそろ宿を探さないと。暗くなってきたし、この様子じゃ、見つけるのに手こずりそうですから。いいですね」
 遥か遠くの山並みに、もう日は暮れかかっていた。辺りには相変わらず人気はなく、夜が近づいても街灯を灯しに来る者も見当たらない。このような場所では、すぐ足元が見えなくなってしまう。
 もはや、だめだとも言えず、アテカは仕方なく小さく頷いた。
 どかどかという荒々しい足音が近づいてきたのはそのときだった。
 
 「なんだ?おまえたち。こんなところで何してる?どこから来たんだ?どこへ行くつもりだ?」
 怒気を含んだような大声と共に、一人の大男がアテカの目の前に現れた。
 「誰かを待ってるのか?返事はどうした?それとも喋れんのか?」
 一方的に質問を投げかけ、無遠慮にじろじろと眺め回す。熊ほどもあろうかと言う巨体の持ち主で、思わず逃げ腰になるような迫力があった。どこか異国風に見えるガウンのような上掛けを羽織っているが、そんな衣服越しにもそれとわかるくらい見事な体格をしている。
 「なんとか言ったらどうだ。なぜ、こんなところにいる?」
 ぬうっと近づいてくる顔は、そのほとんどが濃い色の髭で覆われていた。 
 「ああ、あの、あたしたちは―――」
 鋭く光る眼にギロリと捉えられ上擦った声を上げたアテカだったが、ふいに目の前が遮られた。
 「ぼくたち、怪しい者じゃありませんよ」
 アテカを背後に庇う様な形で立ちはだかったデシムは、突如現れた大男に胡散臭そうな視線を向けた。
 「ただの旅行者です。おじさんこそ、いったい何者ですか?言っときますけど、ぼくたちを誘拐したってお金になりませんからね」
 「誘拐だって?」
 男は心底驚いたようにぽかんと口を開けた。だが、すぐに、
 「ちょっと待て!おまえ!今確か、『おじさん』と言ったな!」
 一変して、噛み付くような声を上げた。
 「おれのどこが『おじさん』なんだ?見た目にも十分若いだろうが!」
 「見かけじゃありません。ぼくたちの年代では名前も年齢もわからないあなたのような年長者は、すべておじさんなんです。名前を呼んで欲しければ、名乗ればいいんです。そうでしょう?」
 「お、おれに名乗れだと?」
 「怪しくないなら名乗ったらどうです?さあ!」
 「なんでおれがおまえに名乗らにゃならんのだ!」
 「じゃあ、どうしてぼくたちが色々問い詰められなければならないんです!!」
 「も、もう、やめなさい。デシムったら」
 いつまでも続きそうな口論に、思い余ってアテカは口を挟んだ。
 唐突に現れてあれこれと詮索されることは、正直嬉しいことではない。だが、着いたばかりの町で揉め事を起こすことは避けたかった。それに、見たところ、それほど悪い人物でもなさそうだ。どちらかといえば、デシムのほうが意地悪く男を煽っているようにも見えてしまう。
 ところが、そこで大男の眼がきらりと光った。
 「なに?”デシム”?それがお前の名か!」
 髭の中で勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。
 「”デシム”!はは!聞いちまったぞ!おまえは”デシム”だ!」
 なぜか形勢が逆転したとばかりに高らかに笑う。
 内心、呆れ気味のアテカは、そっとデシムに耳打ちした。
 「なんだかおかしな人・・・行きましょう」
 それとなく袖を引っ張り、この場を去ろうと促す。しかし、どういう訳か一向に反応が返ってこない。おかしく思って覗き見ると、意外にも眉を寄せ悔しげに歯噛みする少年の顔があった。
 「ど・・・どうしたの?」
 どういう訳か、今のやり取りで怒りを感じているようだ。。怪訝に思いながら、もう一度名を呼ぶと、不機嫌極まりないといった声が返ってきた。
 「行きましょう。時間を無駄にしました!」
 「お、おい!ちょっと待て!おれの質問に答えんか!」
 大男はすばやい動きで二人の前へと回り込んだ。
 「まあ、待て!おれは親切から聞いてるんだぜ。どこへ行くかは知らんが、宿を期待しているんなら無駄だぞ。そんなもの、ありゃあしねえからな」
 さすがに驚きを隠せない二人を、大男はそれ見ろと言わんばかりにせせら笑った。
 「町中探したって泊まれるような場所なんてないぞ。第一、おまえらみたいのが町をふらつくなんて自殺行為だぜ。ここいらにゃ、危ねえ奴らがわんさかいるんだ。この前も、寝過ごして町に下りちまった馬鹿な奴が身包み剥がされてひどい目にあったしな。悪いことは言わねえから、行く当てがあってもなくても今度の汽車で出て行くんだ。わかったな?」
 「物騒ですね。それは忠告ですか?」
 「言ったろう?おれは親切だし、嘘はつかねえんだ。特に、そっちの細っこいお嬢さん。あんたはいけねえな。第一、目立ちすぎる。騒ぎを起こされちゃあ、おれたちが迷惑するんだぜ?」
 にゅっと突き出した指を向けられ、アテカははっとして大男を見上げた。

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