店を出ると、二人は通りの脇で待ち受ける馬車へと戻った。
 すぐさま、落ち着かない様子で佇んでいた御者が走り寄る。男達は馬車の後部付近に集まると、互いに重苦しい顔を突き合わせた。
「今のところ、確かなことは何もない」
 ラクタスは馬車に寄りかかって腕を組むと、二人を前にして話し始めた。
「ここまでの間、我々はひとりとして村人を見ていない。出歩く姿も、窓を横切る影すらもだ。そして、実際に建物の中はもぬけの空で、至るところに混乱の後がある。ここだけなのか、村全体に及んでいるのか…我々が憂慮すべきものなのかどうかも判然としないが、何もかも放り出していくとは余程のことだろう」
 状況を確認するように述べあげる。
 御者は神妙に聞き入っており、ハロンズもまた時折うなづきながら、頭の隅でこれから成すべき事を考えていた。
 目的は、タールへ行くことである。
 だが、この奇妙な事態を捨て置いて先を急ぐなど、到底できることではなかった。
 わかっていることは、“何かが起こった”のだと言うことだけ。それは、無人の風景や割れた酒瓶からも容易に窺えたが、現場を目の当たりにした印象からすれば、極めて憂慮すべき事態であるように思えた。
(まさか、本当に消え失せてしまったなどということは…)
 “人を喰らう霧”や“穴あきポケット”などと呼ばれる夢想話の類を、ハロンズは思い出していた。
 だが、荒唐無稽とも思えるこの発想を、彼はすぐに打ち消した。空想は空想に過ぎない。人が理由もなく消滅するなど、有り得るはずもない。
 ただ、過去に村から人が消えたという事件が、紙面を賑わせたこともあるにはある。が、真相は馬鹿馬鹿しいほど単純なものだった。
 ノミが大量発生したため避難していた、というのだ。
 現実とはそういうものだと、ハロンズは胸の中で呟いた。
 幻想と現実をない交ぜにするのは愚かなことであった。人は時に理解を超えたものに怯え、真実の姿を見誤る。一時的にとはいえ、“魔女”などというものを妄信してしまったことを彼は恥じていた。そんなものは存在しないと、ラクタス・オールランドでさえ言っていたのだ。
 だが、その彼が、“異能者”などと呼ばれる、“能力が少しばかり発達した者たち”と関わっていることも、ハロンズには不可解なことであった。
 “魔女”と“異能者”。
 片方は空想の産物で、もう片方は実在する。が、どちらもくだらないことに変わりはない。
 そもそも、“異能者”とはいったい何なのか?
 酒場のうわさ話やくだらないゴシップ誌の見出しを飾る彼らは、どう贔屓目に見ても好ましい印象ではなかった。手品師まがいの芸を奇跡だとでっち上げ、そうやって暴かれた写真は数え切れない。特別な身体能力と言いながら、実はサーカスの出身だったりするのだ。
 もちろん、ささやかながら突出した能力を認められた者もいる。5回に3回は、裏返ったカードの数字が読める、といった具合だ。それも、ほんの一握りに過ぎない。
 正直、そのような者たちに目をかける彼の気が知れなかった。何の迷いもなく嘘を見破り、真実を明るみにすることができるこの男がなぜなのか…。

「どうした…?大丈夫か?」
 ふいに二の腕を掴まれ、ハロンズは夢から覚めたように顔を上げた。
 気遣うように見つめる青い目に、自分がぼんやりしていたことを知る。
「ああ…少し考え事をしていまして…いや、大丈夫です。気になさらんで下さい」
 何でもないと繰り返すハロンズに、ラクタスは訝りながらも腕を放した。そうして、続きを話し始めた。
「……とにかく、村人を発見して事情を聞くことが先決だ。楽観できるようなものならそれでいい。だが、もし、手に負えない事件に遭遇していた場合は、求めに応じて手を貸すことになるだろう。いずれにせよ、住人の協力がなければ、先へは進めない。馬も手段も、彼らをあてにしているのだからな」
「いっそ、どこぞで祭りでもしていてくれた方が、気が楽というものですな」
「そうだな。取り越し苦労であって欲しいと願うよ」
「では、早速、捜索へと向かいますか?」
「そうだな」
 再び話が流れはじめたことに、ハロンズはひとまず胸をなで下ろした。
 こんな時に、いったい何を考えていたのかと思うと冷や汗が流れた。考えはじめると際限がなくなるのは悪い癖だ。人を詮索しすぎるのも、職業柄とはいえ褒められたものではない。
(彼には彼の考えがあるのだろう。それに、本物と偽物を見誤るような男でもない…絶対に見誤ることなど…)
 その時、ハロンズの中で何かが閃いた気がした。

 結局のところ、男達は二手に分かれて捜索をすることとなった。
 教会と、もう一ヵ所はエルビン・フナップという男の屋敷である。
 話の中で、御者が「そう言えば…」と思い出した男で、このぶどうの里の大地主だと説明した。屋敷には人が多く出入りし、祝い事の好きな地主は、時に大勢の村人を招くこともあると言う。
「詳しくはねえですがね。どうにも型破りな旦那だと聞いてます。いい噂も悪い噂もありやすが、確かなのは酒好きの女好きってことで。いつ身を持ち崩すかって、町でもちょっとした笑いぐさでして…」
 細面の頼りなげな顔を和ませて、御者は少しばかり嬉しそうにも見えた。評価はいまいちだが、好感を持たれているらしいことがわかる。
「だが、彼の住まいがわからないな」
 これにも、御者が骨張った指で空のあちこちを指し示して応えた。
「この…今来た道をずっと戻らねえとなりません。多分、方向はこっちで…村の北端にりっぱな屋敷が建っておりやすから、すぐにわかりますんで」
「馬車の窓から背の高い糸杉が見えたが、あの辺りだろうか?」
「そう!フナップさんとこの糸杉で!間違いねえです!」
 手の平をぽん、と拳で打ってみせる。
「では決まりだな。地主は私が訪ねてみる。君たちは教会の方を頼むよ」
「しかし、距離がありそうですぞ。一人で大丈夫ですか?」
「これでも、方向感覚はいいほうでね。足にも自信はあるんだ。さ、そうと決まったら急ごう」
 そう言うと、ラクタスは御者を急かすようにして台へと上がらせた。
 ハロンズもまたステップに足をかけ、馬車へと乗り込んでゆく。それを見届けたラクタスが扉を閉ざそうとした時、意外なことにその扉が、ぐいと押し戻された。
 半歩ばかりの後退を余儀なくされる。見れば、開ききった扉のすぐ向こうで、ハロンズが不敵な笑みを浮かべていた。
「オールランド殿」
 何を思ったのか、いきなり指を一本立ててみせる。
「わかりましたぞ。あなたが私におっしゃった言葉の意味が…」
「え…?」
 思わぬ出来事に、ラクタスはあっけにとられたような顔で男を眺めた。
 何の話かすぐにはわからず、わずかに眉がよる。
「あなたが私に課した宿題の件です。保留はおしまいです。今まさに答えが見つかりました」
「宿題?…ああ…例の私の質問に対する…」
「そう、私のミスを問われた件です。異能者のことを問う前に、自分の誤りを正せと言われた。それが、わかったのです」
「……ほう」
 状況と言葉の意味を理解すると、ラクタスは楽しげに目を細めた。次いで小首を傾げる。
「…で?その答えはあっているのかい?」
「もちろんですとも!」
 ハロンズは断言した。
「答えは単純でした。しかし、私は知らなければならなかった。何を?そう、何もわかっていないということをです」
 ラクタスは黙って見つめている。ハロンズは続けた。
「私は異能者はすべてくだらないものだと思っていました。ほとんどが嘘っぱちで、本物と言われるものにしてもなんの役に立つのかと鼻で笑っていた。嘘だろうが本当だろうが、異能者とはそういうものだと決めつけていました。俗物でいかがわしく、私の世界とは決して相容れないものとして見ていたのです。そして、それは今も変わっていません。彼らのような人物を否定する気はないが、受け入れるつもりも全くない」
 ハロンズは言葉を置き、男の顔色を窺った。歯に衣着せぬ言い方だが、これが真実であった。
「恐らく、世間一般で言う異能者の定義とはそういうものです。私も含めて、安っぽい手垢の付いた色眼鏡しか持たぬ者が異能者を語ると、そういうことになるのです。ですが、あなたがそれを口にすると、意味は全く違うものとなる。あなたと私の中で、“異能者”という言葉は同義語ではないのですからな…残念なことに、あなたの辞書にどのようなことが書かれているのか、私には知りようがない。何もわかっていない、と申し上げたのはそういうことです。そして、私がそのことに気づかぬ以上、何を言っても無意味だとあなたが考えられるのも当然のことです。あなたの言うとおり、私の目は“曇って”いたのですから……」

 言い終えると、ハロンズは両の拳を膝の上に置いた。思えばあの時、よくもずけずけと物知り顔で責めるようなことを言ったものだ…。
「許していただきたい。オールランド殿。答えに気づいた時、私はあなたに謝らねばと思った。このような時に、こんなことを言い出したのはその為です」
 ハロンズは、ほっと肩の力を落とした。重い荷を下ろしたような気分だった。ラクタスは無言だったが、間違っているとも言わなかった。
 実のところ、それほど大層な自信があったわけではない。ただ、突き詰めて言えば、ラクタス・オールランドという男を信用した、といったところだった。
 そんな彼が関わっている“異能者”であれば、きっと凄いことができるに違いない―――憶測ではあったが、単純にそうあるべきだと思ったのも事実だった。

 暫くして、ラクタスがやんわりと口を開いた。
「君は本当に私を困らせるのが上手いな…君のその気持ちになんと応えればいいか、うまい言葉が見つからない」
「では!正解と言うことですな?」
 意気込んで聞くと、「ああ」と彼は満足そうに答えた。
「”異能者の定義”か…考えたこともなかったな。だが、君の言うとおり、私の辞書が他とは違うことも確かだな。最も、彼らを言葉にすることなどできそうにないがね」
 ラクタスはそう言って笑った。
 この青い目の男を理解することは難しい。しかし、その第一歩を勝ち得たと、ハロンズはじんわりとした喜びに浸っていた。”異能者”などに興味があるわけではないが、彼は友人であり、何より魔女の妄想という悪夢から自分を救ってくれた大恩人なのだ。
「今更ですが、あなたには本当に感謝しているのです。長い悪夢から私を目覚めさせてくれたのですからな。昨日、あのカフェで、あなたが“魔女などいない”と言ってくれなければ私は―――」
 人生が終わっていたと言いたかった。ところが、
「いや。それは違う」
 と、当の大恩人が頭を振った。
「…?」
 突如、異を唱えだした男を、彼は不審げに見上げた。
「違うとは?昨日、確かにあなたはそう言われたが…」
「そんなことを言った覚えはないよ」
 有り得ない、という顔でラクタスは答えた。
「ですが、確かに…」
「私が否定したのは、ありもしない“刻印”と女のことだけだよ。魔女ではなく、ただの詐欺師だと言っただけだ」
「そうでしたか…私の勘違いですな。とは言え、魔女の存在については―――」
「否定しないよ。実在するものを、いないとは言えないからね」
 ハロンズは耳を疑った。話が噛み合っていないのか、それとも…
「オールランド殿、私をからかっておられる?」
「存外にしつこい男だな、君も」
 呆れたといった口調で言い、これで終わりとばかりに再び扉に手をかけた。
「とにかく、気をつけて行ってくれ。村人がいれば、そこで待っていてくれればいい。後で、私も行く」
「いや…あの…」
 大きな音をたてて扉が閉まり、ハロンズは慌てて小窓を開いた。
「で、では…!あなたは、あの女のような魔女が本当に実在するとでも?」
 記憶に、真っ赤な唇をした妖しい女の顔が浮かぶ。ラクタスはきょとんとした後、どこか困ったような表情を浮かべた。
「いや、モーリアーナは力を望むあまり魔女になりたがっている可哀想な女だ。何もわかっていない。本当の魔女とは、もっと特別な存在なのだよ」
「本当の魔女…特別な存在…」
 ハロンズは呟くように繰り返した。その様子にやれやれと彼は肩をすくめた。
「また、同じ質問をさせる気かい?君も言葉などではなく、時には実際に会ってみるといい。もし、君が望むなら、このタール行きはそういう旅になるはずだ」
「“会う”…ですと?私が…その…“魔女”に?」
 彼の答えはそこまでだった。
 御者が馬に鞭をあて、馬車が走り始める。
 その中で、ハロンズはただ呆然と前を見つめ続けた。

 * ***

 去ってゆく馬車の後ろ姿を見送ると、ラクタスはくるりと向きを変えた。
 御者が示した方向は、真北だった。
 来た道を少し戻った後は、目印を探しながら歩くことになる。窓から覗いた糸杉は、民家と木々が混ざり合うその奥に、堂々たる姿で天をついていたはずであった。村は、だいたいが朱色に統一された屋根瓦で、さすがにその周辺の特徴までは覚えていない。道行く者に問いたくとも、当然今はできない。
 だが、いったん進み出せば、さしたる苦もなくフナップの屋敷へたどり着くことはわかっていた。問題は、果たしてそこに人がいるかどうかだ。となれば、今の状況では確実とは言えなかった。
「さて…」
 気を取り直すように、彼は周囲を見回した。
 乾いた風が、時折どこかでたてる音に耳をすます。家々の軒下に、壁の隙間に、彼は目をこらした。
 探しているのは人ではない。ここへ来る途中、彼が目にとめた“あるもの”だ。
 ある意味、それが今最も確実に人の居場所を知っていると彼は考えていた。
「どこにいる?」
 そう呼びかけた後で、彼は小指を軽く曲げると唇に挟んだ。ヒュッ、と鋭くも短い音を吹き鳴らす。
 すると、思ったよりも近くの店の植え込みから、のそりと茶色いものが顔を出した。
「やあ、そこにいたのかい」
 人に言うようにそう話しかけると、彼は迷うことのない足取りで近づいていった。
 一度覗いた影は怯えたように引っこみ、そして、恐る恐るといった感じで再び姿を現した。それは、大人の腰丈ほどもある、耳の垂れた大きな犬だった。
 犬は目の前の人間に、どのように接するべきか探っているようだった。差し出された手の匂いを嗅ぎ、大きな黒い目で青く輝く瞳を覗き込む。ちらりと歯をむき出して唸りもしたが、彼が片膝をついて平然としていると次第に大人しくなっていった。
「大丈夫だ」という言葉を理解したわけではないが、最後に犬は鼻面を押しつけてその足にすり寄っていった。
「ああ、いい子だ」
 長い尾を揺らし手や顔をなめ回す犬を、彼は暫くそのままにしておいた。
 背を撫でると毛並みは見た目よりも柔らかい。よく梳かれ、人の手が入れられていることがわかる。体格は立派で、飼い犬であることは間違いなかった。
 しかし、どこかもの悲しそうに潤んだ目に覇気はなく、しきりと周囲を気にしている。
 犬がある頃からずっと後をつけてきていたことに、彼は早くから気づいていた。
 初めは外の人間が珍しいのかと思いもしたが、次第にそうではないことがわかった。馬車を止めた頃には姿が消えていたが、近くにいるという気配はしていたのだ。
「皆はどこかへ行ったようだが、おまえの主はどこだい?」
 首を撫でてやりながら、彼は尋ねた。
 飼い犬は、常に主人と共にいることを望む。離れているには何か理由があるに違いなかった。そしてそこに、彼はひとつの可能性を見いだしていた。
「さあ、おまえの主の元へ帰ろうか」
 きちんと“座れ”をしていた犬は、その言葉にひくりと鼻面を上げた。
 彼が立ち上がると、まるで待っていたかのように身を翻して前へと躍り出る。そして先導するように、同じ距離を保って歩き始めたのだった。
 初めはゆっくりと、犬は後から人がついてくるかを確認しながら進んだ。
 見慣れぬ人間はすぐ後ろにおり、振り向く度に力強い声で「行け」と命じた。垣根を飛び越し、秘密の穴をくぐり、下草の賑わう木々の間を走り抜けてゆく。いつしか全速力で疾走していたが、背後から人間の気配が消えることはなかった。

 そうして犬が向かった先は、いかほどの樹齢かもわからぬ糸杉が大枝を広げる農家の中庭だった。

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