不揃いに並んだ柵をひと飛びすると、ラクタスは犬の後に続いて敷地の中へと侵入した。
 そこで初めて、犬の足が止まった。
 長い鼻面が空に向き、ひくひくと鼻孔が動く。求める者を探しているのか、しきりと周囲の匂いを嗅ぎ始めた。そこは、芽吹いたばかりの緑が広がる小さな菜園で、柵に沿って咲き乱れる花々が甘い香りを放っている。
「ここかい?」
 地面に片膝をつけたまま、ラクタスはその様子を窺った。花の香りが邪魔をするのか、犬は悲しげな目でちらりと彼を見上げた。仕方がないというように首を垂れ、そして再び走り出す。菜園を越えた向こうには白い小道があり、どうやらそちらへ行くようである。
 彼もまた立ち上がると、その後を追い始めた。

 ここがエルビン・フナップの所有する敷地の中であることを、彼はすでに知り得ていた。
 はるか前方には抜きんでて背の高い糸杉が、尖った先端を天に向けている。その形状が馬車の窓から臨んだものと同じだということに、彼は早くから気づいていた。何よりその敷地は広く、今いる場所も屋敷の横庭だろうということ以外は皆目見当がつかない。大地主だという御者の話からしても、ここがフナップ邸だということは間違いないと思えた。
 まさか、犬がその中へ身を躍らせるとは、さすがに考えてはいなかったが―――
 結局のところ、最短の距離と時間とで、彼は当初の目的地へと案内されたことになる。
「まったく……おかしなものだな」
 わずかに目元を緩め、彼は呟いた。

 犬は、納屋が集まる庭の一画へと向かっていた。
 薪小屋や農具を収めた物置を前に彼が見たものは、地面に投げ出された藁の束だった。薪割りの途中らしい丸太やナタが放り出されたままになっている。
 そこまで来ると、犬はふいに何かを感じたように顔を上げた。その瞳の先には一段と大きな納屋があり、両開きの扉がわずかな隙間を空けている。犬は一目散にそちらへと駆け出すと、隙間へ鼻面を押し込んで吠え立てはじめた。そこに人がいると確信したラクタスは、大きく扉を開け放った。

 しかし、そこに人影はなかった。
 普段は荷馬車の収納にでもあてがわれているのか。しかし、がらんとした地面には何もなく、奥行きのある空間は空っぽだった。見える物は壁に掛かった農具ばかりで、あとは隅に道具箱の類が無造作に放置されているばかりである。
 彼の予想は外れたかに見えた。
 ところが、どこからか小さな声が届いた。
「だめだよ……あっちへ……だ」
 声はこもって弱々しかったが、彼にはそれが確かに子供のものに聞こえた。
 ラクタスは、先程から犬が格闘している藁の束へと目をやった。それは、隅の暗がりに小さく積み置かれた藁束で、声はそこから聞こえていた。犬は前足でその藁を崩す作業に熱中しており、どうやらそれが楽しい遊びだと思っているらしい。てっきり、ネズミか何かを相手にしていると思っていたのだが、そうではなかったようだ。
 積んだ藁がごそりと崩れるたびに、藁の中から必死に犬を叱責する声が聞こえた。
「見つかっちゃうじゃないか……レフティの馬鹿!ああ!やめろってば!」
 今や、大人の腰ほどの高さがあった藁も犬の果敢な挑戦で半分ほどに減っていた。駄目押しのように、鼻面を突き入れたところで、束はもろくも崩れ落ちてしまった。
「あああ!!」
 泣き声の入り混じった悲鳴が上がり、そこから藁と同じ色の頭がのぞいた。ラクタスは近寄ると、残った藁を払い落とした。
「やあ、かくれんぼかい?」
 膝を抱えて藁の中に潜り込んでいたのは、七、八歳と見られる小さな男の子だった。もつれたような巻き毛は藁くずだらけで、見れば、泣き腫らしたような顔も汚れている。真上から覗き込んだラクタスを見るや、灰色の大きな瞳がぎょっとしたように見開かれた。
 藁の中に隠れるという子供らしい遊びを、彼は初め、微笑ましいものと感じていた。
 しかし、子供の目を覗き込んだ途端、そうではないことに気づいた。幼い子供の瞳には、紛れもない恐怖が滲んでいた。
「……どうしたんだい?」
 ラクタスは、強張った小さな肩に触れようと手を伸ばした。
 途端に子供は息もつけぬほどの怯えを見せながら、身体をのけ反らせた。唇は色を失い、身体はひどい震えを起こしている。突然現れた見知らぬ男から目が離せぬまま、子供はすでに恐慌状態へと陥りかけているようだった。
「ああ……悪かった。何もしないよ。ほら……離れただろう?」
 子供から少しの距離を取ると、彼はその場に片膝を落とした。自分が怯えさせているとわかった以上、側に寄らない方がいい。
「私が恐いのかい?」
 ラクタスは優しく問いかけた。
「どうして、そんなところに隠れていたのかな?君のお父さんやお母さんは?」
 しかし、子供はとうてい口がきける状態ではないらしい。
 どうしたものかと考えていたラクタスだったが、ふと、視界の中の茶色いかたまりに目をとめた。先程、耳にしたばかりの名を、彼は呼んだ。
「レフティ」
 犬は、ぴくりと彼の方を向いた。子供の泣き腫らした顔をしきりに舐めていたのだが、親しげに名を呼ばれたことで、何事かと言った顔をしている。
「さあ、レフティ。私と遊ぶんだ!」
 立ち上がりざまにパンと手を打つ。挑発するように逃げる素振りを見せると、犬はとたんにそれが遊びであると感づいたようだった。
 逃げるラクタスをレフティが追う。ひらりひらりと身をかわす人間を、犬はなかなか掴まえることができない。しかし、何かに躓いたように彼が転んでみせると、レフティはいよいよと言うように、その上へ身を乗り上げた。前足が彼の胸を押しつけ、長い舌が顔をなめ回した。
「はは……降参だ。レフティ。もう、終わりにしよう」
 息も切れ切れと言った感じで、彼はその場にあぐらをかいた。ちらりと子供を横目で窺えば、呆然としたような顔がそこにある。自分と仲のいい犬が、見知らぬ男とじゃれ合っている様子を不思議に思っていることは間違いない。
 ラクタスは手の砂を払いながら、楽しげに言った。
「私とレフティは仲良しなんだよ。でも、どうして私たちが仲良くなったか、君は知っているかい?」
 言葉の代わりに、子供は恐る恐るといった風にかぶりを振った。
「私はね。友達と一緒にポトワールから来たんだ。馬車に乗ってね。村を歩いていたら、レフティがやってきたんだ。名前を教えてくれて、君のことも教えてくれた。一緒に遊ぼうと、ここまで連れてきてくれたんだよ」
 多少の嘘が混じりはしたが、ラクタスは素知らぬ顔でそう言った。すると、思惑通りの返事が返ってきた。
「う……うそだよ。レフティは犬だから……そんなこと、言うわけないんだ……」
「そうかな?でも、私にはそう聞こえたんだよ。レフティは遊ぶことが大好きだからね。追いかけっこが得意なんだ。そうだろう?」
「う、うん……」
「君のことも大好きだと言っていた。いつも一緒に遊んでくれると言ってね。君の名前は……ああ……なんといったかな?」
 もともとが素直な性格なのだろう。子供は自分の元へ戻ってきた親友の首を抱くと、小さな声で答えた。
「ぼく……ルドルーだよ。ルドルー・フナップだよ」
「そうか。君のお父さんはエルビン・フナップだったね?」
「うん。父さんのこともレフティから聞いたの?」
「そうだよ」
「……おじさんは?」
「私は、ラクタス・オールランドだ。ラクタスでいい」
「ラクタスはいい人?」
「ああ。いい人だ」
「ラクタスの友達もいい人?」
「ハロンズかい?もちろん、すごくいい人だ」
 幼い瞳から少しずつ恐怖の色が拭い去られてゆくのを見ながら、彼は根気よく質問に答えた。
「じゃ……殴ったりしない?」
「君をかい?殴るものか」
「じゃ、父さんにもひどいことしないね?」
「お父さんがどうしたんだい?」
「助けに来てくれたの?あ、あいつらから……あいつらから、と、父さんを……」
「ルドルー?」
「父さんを、ひ……ひどい目にあわせるんだ!じゅ……銃で父さんが!うう、撃たれて……!」
 小さな身体が、再び大きく震えだす。ラクタスは怯えさせぬよう静かに近づくと、そっと子供を藁の中からすくい上げた。
「落ち着くんだ、ルドルー。大丈夫だから」
 抱きよせると、子供は自分からラクタスの首にしがみついた。泣き濡れた顔を押しつける。彼は、その背を優しく撫でさすった。
「教えてくれないか?いったい誰が父さんをそんなひどい目にあわせたんだ?」
「あ、あいつら……!あいつら、悪魔なんだ。悪魔が……村を壊しに来たんだ。ぼく、見たんだ!あいつらが悪魔になるところを!本当なんだよ!」
 泣きじゃくりながらも、ルドルーは必死に訴え続けた。
「父さんとアマーナとベリンさんが悪魔に捕まっちゃったんだ!みんな殺すって言ったんだ!言うことを聞かないと……殺すって!」
「みんなは……父さんたちは、屋敷にいるんだね?」
「ぼくは、出て行けって思ったんだ。でも、父さんが悪魔たちに、家から出るなって……きっと、悪魔と闘うつもりなんだ!そしたら、アマーナがぼくに逃げろって……でも、ぼくは男の子だから……いつも父さんが男の子は逃げちゃだめだって……でも!ぼく……本当に恐くて恐くて……だから……!」
「……だから?」
「逃げちゃったんだ……」
 我慢の糸が切れたように、ついにルドルーは泣き出してしまった。
「いいかい?ルドルー。よく聞くんだ」
 ラクタスは、そんな幼子の頭を大きな手で包み込んだ。
「誰にも恐いものはあるんだ。私だって、悪魔は恐い。敵わないと思った時は逃げればいい。それが、当たり前なんだ」
「ほ、本当?」
「ああ、本当だ。だがね、だからって、いつも逃げていてはいけない。恐くて仕方がなくても、どうしても我慢が必要な時がある。それを乗り越える度に、人間は強くなってゆくんだ。私は昔、君よりも小さな男の子が、歯を食いしばって頑張っていたことを憶えているよ。彼は、たったひとりで、一生懸命、恐いものに立ち向かっていた」
「……ぼくより小さいのに?」
「そう。君より、うんとね」
 ラクタスがくすりと笑うと、ルドルーは居心地が悪そうに身じろぎをした。
「それで、その子……どうしたの?」
「気になるのかい?」
 こくりと頷くルドルーに、彼は再び話し始めた。
「彼は小さかったが、強くなろうとしていたんだ。だが、私たちはすぐに別れてしまった。ところが昨日、偶然その子を見かけてね。あの小さかった子が、随分と大きくなっていた。驚いたよ……立派に成長していた」
「その子、強くなれたの?」
「ああ、強そうに見えたよ。頭のいい子だったからね。きっと、たくましく生き抜いてきたんだろう。私は何もしてやれなかった……だが、今、生きていると言うことが、強さの証になるのかも知れない……」
 ラクタスはそう言うと、遠いものを見るように青い目を眇めた。
「人間は自由でなければならない。だが、そうであるためには強さも必要だ。ああいう目をした少年が、もっと育ってくれれば……いつかは…………」
 思いを馳せるように、彼は幼子の身体を抱きしめた。
 いつしか、彼の思いは過去へ跳び、そして未来を跳んでいた。いつか訪れるであろう夢の世界と過ぎ去った日々の痛みに、そっと瞼を閉じる。
 そうして、彼はうねるような感情の波を、静かに胸の奥底へと沈めていった。
 気がつけば、疲れ切ったルドルーは深い眠りへと落ち込んでいた。耳元にかすかな寝息が聞こえ、肩の重みがぐんと増している。軽く揺すって名を呼ぶが、目覚める気配はなかった。
「さて、どうしたものか……」
 幼子を肩に抱いたまま、彼は暫し、思案に暮れた。



 時間は遅々として進まぬように思えた。
 懐へ手を入れ、懐中時計を取り出す。長針も短針も、さほどに動いてはいない。ハロンズはぎりぎりとした思いで、それを懐へ戻した。指定の位置であるかのように、両手を膝の上に戻す。いらいらとした時間が過ぎ去り、再びハロンズは手を懐へ差し込んだ。すると―――
「もう、よしやしょうや。旦那……」
 呆れきったような声が、隣から上がった。
「一分おきにそう何度も時計を出されたんじゃ、落ち着こうにも落ち着けねえってもんです。いい加減、どんと構えて待っていたらどうです?」
「一分三十秒だ」
「へ?」
「だから、一分ではなく、一分三十秒だと言っている!さっきから、まだその程度しか経っていない!」
「そりゃあ、旦那がひっきりなしに見てるからで……いらいらする気持ちはわかりますがね。半時ほど待てって言われたんですから、言うとおりにしましょうや。それに、ここは静かにするところなんで……そう膝を揺すって靴底をカタカタ言わせるのもどうかと……」
「んむ!」
 御者にそう指摘され、ハロンズは右の膝頭をぐっと押しとどめた。このように理不尽な待ち時間を強要させられた時などに、必ずと言っていいほど出る悪癖である。
 やれやれと言った御者の顔を、彼は睨みつけた。
「これが大人しく待っていられるかね?我々は渦中にいながら、まったく事の詳細を掴んでいないのだぞ?しかも、ここで待てとはいったいどういう訳なのだ?我々は半時待った。しかし、更に半時待てと言う。責任者は何をしている!」
「きっと、村の者も大方がわかっちゃいねえんです。どえらいことになったもんですから……多分、右往左往ってやつかと……」
「だから尚のこと、情報が必要なのだ!こんなところで、祈りなど捧げている場合では……!」
 もはや我慢がならんと言ったようにハロンズは長椅子から立ち上がった。
 礼拝堂に詰め寄った多くの村人は、そんな彼の無礼など気にもとめぬように一心に祈り続けている。そのほとんどが老人や女子供だったが、教会内部はそれらの人々で埋め尽くされている状態だった。窓や出入り口はぴっちりと閉じられ、その中でむせるほどに焚きしめられた香にも、彼の精神はとうに限界を超えてしまっていた。
「だ、旦那ってば……」
「ええい!うるさい!」
 縋りつく御者を払いのけ、ハロンズは説教壇横の扉へと走り寄る。乱暴にノブを引くと、そこには先程も見かけた村の男が立ちはだかっていた。
「責任者に会いたい!何度も言うが、私はセロースの弁護士で、ルビアーノ・ハロンズという。当然、この村の者ではない!そのような人間をなんの承諾もなく部屋に留め置くとは、どういうことか?これは、れっきとした監禁罪ですぞ!」
「村の非常事態なのです。ご理解いただきたい」
 いかめしい顔をした村の男はそう言うと、じろりとハロンズを睨んだ。
「その台詞は少し前にも聞きましたな。だが、私には、状況を知る権利がある!私の友人がどうなっているのか、それを聞きたい!」
「だから、調べていると言っている!何度も言わせるな!とにかく、ここを動かないでもらいたい!」
「それでは話にならんのだ!」
 ついにハロンズは怒り、村人を押しのけた。行かせまいとする男に腕を掴まれ、もみ合いとなる。御者が止めに入ったが、到底、収まりはつきそうにない。すると、
「二人とも、やめるんだ!」
 鋭い声が響き、廊下に長い影が差した。五十近い年齢のたくましい男が、大股でこちらへとやってくる。
「ここを、どこだと思っている!教会だぞ!場所をわきまえろ!」
「しかし、エバートンさん……こいつが……」
「いいんだ。放して差し上げろ」
 エバートンと呼ばれた男はそう言うと、背後から羽交い締めにされていたハロンズへと目をやった。
「彼に話がある」


 教会を出たハロンズは、行く先も告げられぬまま、男のあとについて歩いた。
 何処へ行くのか、男は重々しい雰囲気を漂わせたまま、振り向きもしない。がっちりとした幅広の背中を見ながら、彼はまたもや、焦る気持ちを必死に押さえねばならなかった。まさか、このような事態が待ち受けているとは思いもしなかったが、ラクタス・オールランドの行方と安否は、何が何でも確認しなければならない。
 しかし、教会へ閉じこめられてからすでに一時間は経過している。
 ハロンズは拳を固く握りしめた。

 ラクタスと別れた後、二人は真っ直ぐに教会へ向かった。
 村人はすぐに見つかった。教会の白い外観が目の前に開けた時、そこに数人の男たちを発見したのだ。
 馬車から降り、和やかに挨拶を交わそうとしたハロンズを、しかし、村人たちは険しい表情で取り巻いた。所持品を調べられた上に、身元までを厳しく詮議された。そうして、御者共々、あの礼拝堂へと連れて行かれたのである。
 そこで、聞き及んだことは、到底信じられぬような話だった。
 人に取り憑いた悪魔が、村に疫病をばらまいたというのだ。
 それは今朝のことで、集まった村人たちのほとんどが詳細すら知らぬと言う状態だった。ただ、わかっていることは、馬でやってきた数人のよそ者が悪魔と化し、村人を襲ったということだけだ。現場に居合わせた者はいなかったが、多くの者が何発もの銃声を聞いたという。村は騒然となり、女や子供などは、すぐさま教会へと避難させられた。
 話の全てを信じるつもりはなかったが、彼の唯一の懸念は、ラクタス・オールランドの安否だった。
 数少ない情報を集めるうちに、手洗いから戻ってきた老人が、とんでもないことを言い始めた。悪魔に取り憑かれた男達は、どうやらフナップ邸に立てこもっているらしいと……。
(無事でさえいてくれればいいのだ……)
 人間は時に、恐怖を悪魔という形に置き換える。村人の言う悪魔とは、そのようなものだとハロンズは思っていた。
 だが、銃を持った人間や疫病となれば、話は別だ。
 フナップ邸へ向かったあの青い目の男が事件に巻き込まれる可能性は、今や、限りなく大きいように思えた。

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