タール行きの列車は、定刻どおりにセロース駅を出発していった。
次第に小さくなってゆく様子を見送っていたラクタスは、やがて置いてあった鞄を手に歩き出した。
ホームにはすでに客の姿はなく、列車を送り出した後の静けさだけが漂っている。
切符を取り出して改札口へ急ぐと、そこにいたのは先程注意を促してきた若い駅員であった。
駅員は手渡された切符を受け取ると、じろりとラクタスを睨んで言った。
「飛び降りは禁止です。危ないですからね」
「ああ、すまなかったね」
どうやら、列車から飛び降りたところを見ていたようである。
苦笑交じりに謝れば、駅員の表情も和らいだようであった。
更に駅員は、待合所に人待ちの客がいることを伝え、構内の一角に設置された長いすを指し示した。見れば、四つ並んだ長いすの一番前に、世話しなく懐中時計を覗いている男がいる。少し太り気味の身体に地味な三つ揃いと蝶ネクタイといったいでたちで、年齢は三十くらいと思われた。くるくるした赤茶色の巻き毛と綺麗に切りそろえられた口ひげが目立つ男だった。
ラクタスは心当たりがないことを駅員に告げると、足早にその場を立ち去ろうとした。
すると、それを目に留めた男がぴょこんと立ち上がった。人好きのする笑顔に安堵の色を浮かべながら、こちらへと歩み寄ってくる。
「ラクタス・オールランド殿ですな。お待ちしておりましたぞ」
側まで来ると男は恭しく一礼し、親しみをこめてこう述べた。
「なかなか出てこられないので心配しておりました。もしや、乗り過ごされたかと・・・何しろ、このような片田舎ですからな。長旅で、ついうっかり寝過ごす者も多いのですよ」
そう言いながら、慇懃に片手を差し出す。が、そこでラクタスの訝しげな様子に気づいたようで、慌てて言葉を重ねた。
「おお!これは失礼!私ルビアーノ・ハロンズといいます。先日、あなたに不躾なお願いを申し上げた張本人でして・・・謝罪もかねて、こうしてお迎えに参上仕ったという訳です。いや、途中、道が込んでましてな。馬車が進まず、遅れるかと冷や冷やしておりました。ですが、時刻の列車が到着しても、一向にあなたが出ていらっしゃらない。いや、参りました」
見れば、額にうっすらと汗が滲んでいる。
ラクタスは気の毒そうに微笑み、宙ぶらりになっていた男の手を取って握り締めた。
「こちらこそ、気を揉ませてすみませんでした。出向いていただいているとは聞いていなかったものですから。ですが、面識がないにもかかわらずよく私がわかりましたね?」
興味深そうに問うと、男はいやいや、と言う風に首を振った。
「実はあなたのことはご無礼ながら、リィ男爵から伺っておりましてな。『金と青との絶妙なる調和』とは彼の言葉なのですが・・・こうして実物を目にすると、まあ、実に的を得た表現で・・・さすがに洗練されて実に羨まし・・・いや、失礼。どうもいけませんな。人に会うのにこれほど緊張したのは初めてでして・・・仕切りなおしてもよろしいかな?」
面白がってラクタスが頷くと、男は改まった様子でごほんとひとつ咳払いを放った。
「お目にかかれて光栄です。私はハロンズ弁護士事務所の責任者でルビアーノ・ハロンズと申します。王都アルタールよりはるばるご足労頂き真に感謝にたえません。どうぞ、以後はハロンズと呼び捨ててください」
落ち着きを取り戻したハロンズは、滑らかな口調でそう挨拶した。改めて右手を差しだし、ラクタスもそれに応えた。
「オールランド商会のラクタス・オールランドです。セネス・ヴァーレイト・リィ男爵は私の古い友人です。彼からあなたを訪ね、相談を受けるように言われています。最近、困ったことに遭遇したと聞きましたが」
そうです、とハロンズは答えた。
「まあ、長い話なのです。とは言っても、話だけなら五分もあれば事足りるのですが。とりあえず、駅前の広場に馴染みのカフェがあります。そこで、コーヒーでもいかがですかな?」
ハロンズはそう言って、出口へとラクタスを促した。差しさわりのない会話をしながら広場へ足を踏み入れれば、そこにいた誰もがラクタスを振り返る。
突如現れた金髪碧眼の若者に、人々の目は釘付けとなっていた。
「目立つことこの上なし、ですな。さぞ、ご苦労も多いことでしょう」
嫌味を取り払った正直な感想にも、本人はわずかに目を細めただけであった。
二人は色とりどりのタイルを嵌め込んだ敷石の上を歩き、花々が咲き乱れる美しい花壇を眺めながら進んだ。
感心したラクタスが賞賛すると、ハロンズは喜んで注釈を始めた。
セロースは人口が一万あまりの古い町で、これといった資源も産物もない。ただ、背後に広がる美しい山々と澄んだ湖が、金持ちや貴族の人気を呼んでいるのだという。
地元で細々と作り伝わる果実茶も健康に良いと評判になり、避暑や静養先として名を馳せるまでになった。
「古い建物と古い習慣。実際、人間の中身も古いせいか、新しいものや異質なものはなかなか受け入れることができんのです」
そういったあまり変化を好まない住人の暮らしぶりこそが、古き良き町セロースを支えているのだとハロンズは説明した。
「王都にはない美しさがあります。セロースの人たちはもっと自信を持たれた方がいい」
そう言うと、地元の弁護士は照れたように笑った。
そよそよと風に揺れる街路樹の影を踏みながら、やがて二人は赤いレンガ造りのカフェを訪れた。真っ白い日よけをくぐって中へ入ると、ハロンズの馴染みだという年配の店主が喜んで二人を向かえた。
店主は『ここからの景色が一番』という外のテーブル席へと案内し、『一番旨いコーヒーを』という注文にも愛想よく応じた。
暫くの間、二人はそうして店主のついだコーヒーを堪能した。
やがてカップが空になった頃、ハロンズはようやく本題を語り始めた。
「私があなたにお聞きしたいこととは・・・」
ぐっと何かを詰まらせたかのように声が途切れる。ここへきて、ハロンズは何かを言いあぐねている様であった。
すると、それまでじっと聞き側に徹していたラクタスが口を開いた。
「あなたが私に聞きたいこととは、先程おっしゃった『異質なもの』のことですね」
弾かれたようにハロンズが顔を上げ、やがて苦しそうな顔で、その通りです、というように頷いた。 そうして、再び話し始めた。
「こんなことを人に話すのは、正直、私の哲学に反するのです。私は大学時代をずっと王都で過ごし、法律を学び終えて故郷に帰ってきました。努力と苦労を実らせ、さしたる失敗も挫折もなく今日に至っているわけでして・・・世の中のことも人間のことも、頭で考えれば大抵のことは理解でき、問題は解決できると信じておったのです。が・・・」
またもや言葉に詰まったところで、店主が二杯目のコーヒーを注ぎに現れた。ハロンズは豆の香りが漂う熱い液体をひと口すすると、ふいにぐいと顔を上げた。
「思い切って言いましょう。あなたは私の頭がおかしいと思われるかもしれんですが・・・ですが、この町へ避暑に来られていたリィ男爵が、是非、あなたに相談するようにと連絡を取ってくれたのです。聞くところによれば、あなたは王都で『異能者』と呼ばれる特殊な力を持った人間について、大変お詳しいらしい。だったら、私が見たものについても何らかの結論を与えてくれるのではと思ったのです。オールランド殿、あなたは『魔女』というものを見たことがおありですかな?」
「魔女・・・ですか?」
「そうです。魔女、です」
小さな黒い瞳が一気に輝きを増したようであった。
これまでになく真剣な眼差しでハロンズはラクタスを見つめた。表情を読み取ろうとするかのように、前へとにじり寄りすらする。
だが、そんな彼の内心にもかかわらず、ラクタスは穏やかであった。
驚くわけでもなく、ゆったりと椅子に腰掛けたままじっとその様子を見守っている。
やがてハロンズは、ひどく落胆したようにがっくりと肩を落とした。
「やはり、信じられんようですな。当然です。これはあまりにも馬鹿げた話です。まあ、世の中には様々な人間がいて、中には鉄を曲げたり、箱の中の文字を言い当てたりする者がいることは知っています。恐らくは、あなたがご存知だという『異能者』もそういった連中でしょう。ですが、私が遭遇したあの女は、どうにも魔女としか言いようがないのです。なぜなら・・・」
そうして突然上着の袖をまくり、カフスボタンを外した。