「待ちなさい!アテカ!」

 フェイブルらの制止の声は、すでに耳に届いてはいなかった。
 気がつけば、アテカは階段を駆け上がっていた。
 予感めいたものが、言いようのない焦りと不安を生み出していた。
 あれほどの音と振動にもかかわらず、デシムは未だに姿を現さない。
 先程の異変で、その身に何かが起こったとしか考えられなかった。
 
 アテカは一気に二階まで上り詰めると、迷わず左手にあるナギの部屋へと足を向けた。
 左右に分かれた廊下は、右がフェイブル氏の寝室と書斎へ。そして、左がナギとシェイラの部屋へと続いている。中央の壁には、夜間用のランタンがひとつ灯されていたが、今はそれすらも消えてしまっていた。
 光源の途絶えた通路は真っ暗で、アテカは壁を伝いながら手探りで扉を探した。
 先程見たときには、確かにナギの部屋から黄色いランプの灯りが漏れていた。何度か部屋を訪れた際も、その光を目印に廊下を渡っていたのだ。
 それが今は一筋の光もなく、ひっそりと闇に沈んでいる。
 (デシム!)
 もはや、何事かが起こったという予感は、確信へと変わっていった。肌が粟立ち、締め付けるような胸騒ぎに息すらも苦しくなる。
 ようやく扉らしきものと冷たい金属の握りが指に触れたところで、アテカは初めて盛大に息をついた。
 鍵のない扉は簡単に開く。今まではそうだった。
 ―――が、どうしてか、固定されたようにびくともしない。

 (開かない!どうして…!)
 予想もしていなかった事態に、アテカは闇の中でしばし呆然と立ちつくした。
 元々空き部屋だったこの部屋には、ナギの寝台がひとつあるきりで他には何もない。そこへ、デシムの為にと新たに急ごしらえの寝具が用意されていた。
 「デシム・・・いるんでしょ?返事をしてちょうだい!」
 扉に額を擦りつけるようにして、アテカは向こう側へと声をかけた。厚い毛布を重ね合わせただけの簡素な寝床に、デシムはいるはずなのだ。
 じっと壁の方を向き、気だるげに身を横たえていたのは、ほんの半時も前のことだ。
 何かがおかしいと感じてはいた。
 初めは具合が悪いのではと思い、診察を勧めたが、そっけなく断られた。次第に 口数が減り、喋りかけても返事すらまともに返さなくなった。
 気を揉み続けるも、最後には気遣いは無用とばかりに、やんわりと退室を促されたのだった。
 サガートとの一件以来、アテカは自らデシムとの距離を縮めようと努力していた。
 だが、今回、そこに踏み入ることを許さなかったのは彼自身であった。

 「お願い!ここを開けて!お願いだから!」
 一向に返事がないことにすっかり動転してしまったアテカは、力任せに扉を叩いた。
 次第に叩き続ける手が痺れ、感覚が麻痺した。それでも構わず振り上げた腕を、難なく押さえ込んだ大きな手があった。
 「落ち着け!嬢ちゃん…骨が折れちまうぞ!」
 とたんに腰に太い腕が巻きつき、ぐいと持ち上げられる。あっと思った次の瞬間には、眩しい光の中へと下ろされていた。
 待ち受けるように伸ばされた腕に肩を抱かれる。ふわふわした髪と芳しい香りはシェイラのものだと、頭の隅で感じていた。

 「アテカ!ああ…泣かないで!」
 小刻みに震える細い指先が、頬の辺りを何度も往復する。同じ指がアテカの汗に乱れた髪を梳き、再びしっかりと抱きしめられた。
 「大丈夫よ!私がついているわ。ナギもいるのよ。だから…泣かないでちょうだい!」
 アテカはぼんやりとシェイラの顔を見つめた。言葉の意味がよくわからなかったのだ。
 泣いているのはシェイラの方だった。
 大きな瞳から、ぱたぱたと大粒の涙がこぼれ落ちている。
 判然としない頭を置き去りにして、アテカはゆるゆると視線を動かした。
 廊下の隅に大きなランタンが置かれている。
 狭い空間に広がる有り余る光が、いつの間にか現れた三人の姿を照らし出していた。
 動かぬ扉を前にして、フェイブルとナギが苦心している様子が目に映った。
 「だめだ!こりゃ、扉が傾いじまってる…どうあっても開かねえ!金てこが要る!」
 「バールは納屋だ。だが、取りに戻る時間が惜しい」
 「わかった!少し下がってな、先生!」
 「手加減するんだぞ。中がどうなっているかは―――」
 フェイブルの言葉が終わらぬ間に、ナギは頑丈な靴裏を扉に向かって蹴り落としていた。
 大きな破壊音が轟き、衝撃で入り口が吹き飛んでしまったかに見える。
 だが、扉はかろうじて原形をとどめたまま、大きく開いたにとどまった。
 同時に冷えた風が生き物のように流れ込み、暗い室内を青白い光が煌々と照らし出していることに全員が気づいた。


 「これは…いったい、どういうことだ…?」
 ランタンを手に先に足を踏み入れたフェイブルが、愕然とした声で疑問を口にした。
 続いて自室を覗き見たナギも、入り口を塞ぐように立ちつくしたまま動こうとしない。
 ただ事ではないと感じ取ったシェイラが引き留めるより早く、アテカは夜の気配が漂う室内へと飛び込んでいた。
 (デシム!)
 月とランタンの光により、部屋は一瞥しただけで全てが見通せた。
 そこに、デシムの姿はなかった。
 代わりに皆の注目を引いたのは、惨憺たる部屋の有様だった。

 ナギの寝台があった辺りには何もなく、代わりにバラバラに裂かれた板や棒切れが部屋のあちこちに散らばっていた。
 いくつかの木ぎれは壁に突き刺さり、至るところで漆喰がひび割れ、朽ち果てた家屋のように剥がれ落ちている。寝具に詰め込んでいた白い羽毛が床を這い、歩く度にそれが舞い上がるのだった。
 「これは・・・驚くべき事態だな。こんなのは初めてだ・・・まるで、つむじ風のようだが、いったい・・・」
 光をかかげながら、フェイブルが唖然として呟いた。
 「全くだぜ・・・信じられねえ・・・おれの部屋が・・・」
 寝室を失ったナギが、ぐるりと室内を見回す。遅れて現状を目にしたシェイラが、小さな悲鳴を上げた。
 「なんなの!・・・何があったの?」
 誰も答えを返せぬまま、長い沈黙が続いた。
 異常な光景を目前に思考が鈍り、次に何を成すべきかがわからないのだ。
 ややあって、沈痛な表情を浮かべながらも、気を取り直したようにナギが顔を上げた。
 「わからんが・・・とにかく、奴を探そうぜ・・・どこかにいるはずだからな」
 少年はここにはいない。どうにかして難を逃れたのか、それとも初めからいなかったのか・・・。すると、皆をどきりとさせる声でシェイラが叫んだ。
 「窓!窓が開いてるわ!落ちたのかも・・・!」
 その言葉に全員が部屋を縦断し、ガラスはおろか枠組みすら失われた窓から身を乗り出した。
 真下は裏庭でありシェイラが改良を試みている小さな薬草園が広がっている。天空には冴え冴えとした月が眺められたが、この時間ではどんなに目をこらそうとも、闇以外のものは何ひとつ見定めることはできなかった。続く木立の向こうで、教会のとがった屋根がぼう、と浮かんでいる。
 「おれが行ってくる。先生らはここで待っててくれ」
 「私も行くわ!怪我をして近くで動けなくなっているかもしれない」
 「わかった。もし、見つけたら、動かさずにすぐに知らせなさい」
 ナギとシェイラが慌しくその場を駆け出してゆく。
 慌てて後を追い始めたアテカだったが、すんでのところでフェイブルに捉えられた。
 「君はここにいなさい。二人に任せるんだ」
 「で、では・・・他の部屋を捜します。二階と、居間と・・・それから炊事場や・・・」
 「アテカ。落ち着きなさい。君は今、ひどく動揺している」
 フェイブルはそう言うと、アテカの背を押して光の側へと導いた。さりげなく手首に触れ、すっかり青ざめてしまった顔色を窺う。
 そんなフェイブルの行為をぼんやりと見つめていたアテカだったが、暫くして彼が医師であるということを思い出した。
 「すみません・・・あたし・・・」
 続く言葉が見つからない。なぜ、こんなことになってしまったのか、考えようにも頭がうまく回らなかった。
 「心配しなくていい。彼はきっと見つかる。もしかしたら、何も知らずに外をぶらついているのかもしれん。いずれにせよ、君がそんな顔をしていては、彼が気まずくて出てこれないんじゃないかな?」
 「あたしが・・・?」
 そうだよ、とフェイブルは頷いた。
 「彼はまだ少年だが、自分が男だということを充分認識している。自分のせいで君が怯え、悲しんでいたと知ったら、彼もまた、自分を責めるだろう。そうじゃないかね?」
 そう諭しながら、フェイブルはアテカの汚れた頬を撫でた。
 年齢と共に優しさを重ねた医師の言葉が、ゆっくりと心にしみ込んでゆく。
 「君は人に真面目すぎるところがある。もっと肩の力を抜いて生きた方がいい。私は心理学者ではないが、人が健康に生きてゆく方法だけは知っているつもりだ。頼れる者には大いに頼り、時には自分を甘やかしてみることも大切なのだよ」
 「フェイブルさん・・・」
 子供にするように、頭の上に手が置かれた。ひどく面映ゆいものを感じながらも、アテカは素直に頷いた。
 不思議な安心感に包まれているようで、次第に気持ちが落ち着いてゆく。自分が如何に取り乱していたかがわかった。
 いく分安らいだようなアテカの様子に満足したフェイブルは、さて、と廊下の方へ目をやった。
 「念のため、他の部屋も見に行こう。想像しにくいが、彼が震えて隠れているかもしれんからね。まあ、ナギが言うに、彼は相当な神経の持ち主だろうから、有りえんとは思うが・・・」
 「まあ・・・」
 如何にも想像しにくい話である。だが、神経が太いという点ではアテカも認めざるを得なかった。
 「では、あたしも一緒に・・・」
 「いや、君にはここで、ひとつ仕事を頼みたいのだ」
  
 フェイブルがいなくなると、アテカはすぐさまランタンを窓の近くへと移動させた。
 下を覗き込めば、ちょうどナギが灯りを手に裏庭へ入ってきたところだった。所狭しと生えそろう薬草やガラス張りの小さな温室を、黄色い光で次々と照らし出してゆく。
 だが、祈るような気持ちでそれを見ていたアテカの目にも、ついにデシムの姿は見つけられなかった。
 「いねえな・・・飛び散った窓の残骸だけだ。くそっ!あの野郎、どこに行きやがったんだ?これで平気な顔をして現れやがったら、絶対にぶん殴ってやる!」
 穏やかならざる独り言を言いながら、それでもナギは念入りに辺りを調べまわっていた。ザクザクと地面を踏みしめながら時折立ち止まり、屈みこんでは地面を探る。何かを考えては、また歩き出した。
 「ナギさん」
 アテカが呼ぶと、ナギはぎょっとしたように上を見上げた。
 「お、驚かさんでくれ!おれは人一倍、気が小さいんだ!心臓が止まりかけたぜ・・・」
 本気なのかどうか、いかつい大男は胸を押さえて情けない声を出した。
 「フェイブルさんは家の中を捜しています。あたしにここに残るようにって・・・」
 ナギとの連絡係をしてもらいたいのだ、とフェイブルはアテカに言った。そのことを告げると、ナギは力強く頷き、自分はもう少しこの辺りを捜すと返事を返してきた。
 「今、シェイラが納屋を捜している。おれは教会の方へ行くと先生が来たら伝えておいてくれ。それから・・・」
 ナギはそう言い、窓際に立つアテカへ向かってニカリと笑ってみせた。
 「嬢ちゃん。奴はおれが必ず見つけてくるからな。心配するんじゃねえぜ」
 「ええ。ナギさん・・・待っていますから」
 「けど、ちっとばかし顔に痣ができてても、おれを責めるんじゃねえぜ。夜遊びの好きなガキにはお仕置きが必要だからな」
 先程の独り言を思い出し、アテカはどう答えていいかわからず曖昧な笑みを浮かべた。

 
 ナギを見送り、暫く佇んでいたアテカも、やがて窓を離れてランタンの側で腰を下ろした。
 夜風が身に染みてきたこともあったが、闇を目にしていると、どうしても思考が沈んでしまう。ランタンの放つまばゆい光を見ていた方が、まだ心が安らぐような気がしていた。
 琥珀色の瞳に金色の灯をともし、アテカは暫し、ぼんやりとその場に座り続けた。
 (アテカさん・・・)と、呼びかける声を思い出せば、今にもどこからか聞こえてくるような気がする・・・。
 部屋を見回し、足元に散らばる木片の隙間に寝具と思しき布を見つけ、なんとなく、それをずるずると引き出した。
 胸に抱き、ほっと息を吐いて目を閉じれば、ふわりと何かが全身を包んだようであった。

 (―――アテカさん)

 声が聞こえたと思ったのは、そのときだった。
 どきりと心臓を波打たせ、アテカは慌てて周囲を見回した。
 ―――だが、誰もいない。
 それでも立ち上がって、もう一度聞こえぬかと耳をそばだてた。
 まさか、と思う。

 「・・・デシム?」
 鼓動が激しく打ち鳴り、その音がひどく煩わしい。
 焦る心を押し込めて耳をすますと、確かにその声は聞こえた。

 (―――アテカさん)

 「デシム!」
 だが、奇妙な違和感があった。
 それは、どこからというより、ひどく身近から聞こえてきたような気がした。
 実際には声ではなかったのかも知れない。
 デシムの気配を漂わせた夜の風が、自分の名を繰り返し呼んでいるように思えたのだろうか・・・。

 「あ・・・」
 アテカはひどく狼狽えながらも・・・そろそろと胸に抱いているものを見下ろした。
 三度目に聞こえた声は、確かにそこから届いたと思ったのだ。
 よく見れば、それはデシムが横たわっていた時の毛布であり、引き裂かれた残骸だった。繊維はほつれ、至るところに穴が空いている。
 しかも、気がつけばなぜかそれは・・・充分すぎるほどの湿り気を含んでいた。
 そこから漂う金臭い匂いを嗅いだ時、アテカの全身から血の気が引いていった。
 (あ・・・あ・・・!)
 言葉を無くしたかのように、アテカはその場に立ちつくした。
 がくりと膝がくじけ、崩れ落ちる。のろのろと、冷たくなってゆく指で布を広げると、一面に黒々としたものがこびり付いていた。
 それが厚い毛織りをじっとりと湿らせている。
 濡れた指先をランタンの灯にかざせば、黒く見えるそれは確かに赤く、鮮血に違いなかった。

 「デ・・・シム・・・・・・」

 息をすることすら忘れ、アテカは放心したように、その場に座り続けていた。
 血溜まった布をたぐり寄せ、胸にかき抱くと堰を切ったように涙が頬をぬらした。
 デシムの声は、そこから聞こえたのだった。

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