全くもっておかしなことになったと、ルビアーノ・ハロンズは眠い目をこすりながら考えていた。
 今朝、始発の汽車に乗り、セロースを発ったのは二時間あまり前のことだ。
 昨夜の睡眠不足がたたったせいか、車内ではくつろぐと同時に深い睡魔に襲われた。気持ちよく寝入っていたのもつかの間、情け容赦のない『着いたぞ』の一言で飛び起き、半ば引きずられるようにしてステップを下りた。寝ぼけ眼で駅名を確認すると、そこは、ポトワールという何の変哲もない小さな町であった。
 こんな事でもなければ、立ち寄る必要など永遠になかったであろう古い田舎町である。
 多分に後悔を含んだため息を落とし、ハロンズはここに至った経緯を思い返していた。

 昨日、知り合ったばかりの男は、ラクタス・オールランドという。
 明るい金髪と驚くほどの青い瞳をもつ、いわゆる美男子という類の男であり、ハロンズの忌まわしい悩みを即座に消滅せしめた人物でもある。
 正直を言えば、これほど簡単に憂いが拭い去られるとは思ってもいなかった。
 自分はどうかしていたのだ、と今であれば冷静に考えることができる。
 “魔女の刻印”などという幻想の産物に惑わされ、リィ男爵にまでいらぬ相談を持ちかけた。そして、遣わされたラクタス・オールランドにより、いとも簡単に事実が判明したのであった。
 弁護士という重職にありながら、ありもしない妄想などに取り憑かれていたとは・・・。
 痛恨の事実は、ハロンズの気力を一気に失わせた。
 弁護士としての自信がぐらつき、人生に初めて嘆かわしい汚点がついた日だと、己自身を呪いもした。なんという愚かさ!無能さであることか!
 (ふむ・・・)
 だが、落ち込んだ後の浮上もまた、一瞬にして行われた。
 彼の性格上の美点でもあったが、もはや、問題は何もなくなったのだと、若き弁護士は居直ることにしたのだった。
 風は気持ちよくそよぎ、テーブルの上には香り立つコーヒーが置かれている。お茶請けのクッキーもまた格別だ。
 おまけに友人とするに充分な男に出会えた事は、何より喜ばしいことではないか!
 そう思えば、人生は新たな輝きを見せた。
 目の前の男が災厄を打ち砕いた神の使いのようにも思え、心が躍った。
 「タールへ行ってみないかい?」などと、とんでもないことを言い出すまでは・・・。


 *  *  * 


 「ちょっと待ってくれ。100リルは少し高くないかい?80リルがいいところだろう」
 「馬鹿言わんで下さい、旦那。ここから隣村まで人の足だと半日はかかるんですよ?それを、馬車でたったの二時間だ。第一、こっちはまた二時間かけて戻ってこなきゃならない。四時間も舗装なしの悪路を走らせたら、どういうことになるかわかってるんですか?馬はクタクタ。私だってヘロヘロだ。今日どころか明日だって、働けるかどうかわかったもんじゃない。おまけに家には四人の子供がいてーーー」
 「ああ、もういい、よくわかったよ。君の言う通り100リル出そう。そのかわり、村へ着いたら別の馬車を見つけてくれないか?先へ進みたいんだ」
 「人使いが荒い旦那だなあ。そんなに西へ行きたけりゃ、汽車でいったらどうです?」
 「この先は線路が分岐していてね。西回りは三日に一度しか汽車が出ないらしい。だから、こうして君に頼んでいるんだ」
 「なんてこった。はぁ・・・わかりましたよ。言っときますけど、料金は全額前払いってことで」
 「もちろん。ただ、現金がなくてね。小切手になるけど、いいかい?」
 「冗談はよしてくださいよ、旦那ぁ・・・」

 御者との駆け引きは、難航しているようだった。
 重い旅行カバンを足元に置き、ハロンズは少し離れた歩道のベンチで、そこはかとなく聞こえてくる二人の会話に耳をすませていた。
 一頭立て四輪馬車の御者台に座しているのは、くたびれた感じの痩せた男だ。
 100リルをふっかけたはいいが、行き帰りの苦労を思うとどうにも腰が引けるといった様子である。
 今また、ラクタス・オールランドが涼しげな顔で小切手帳を取り出すのを見て、必死にかぶりを振っているのだった。
 「頼みますから、現金で・・・」
 さもあらん、とハロンズは人知れず頷いた。
 小切手などという面倒でリスクの多い紙切れを、現金商売で成り立つ辻馬車が歓迎するはずもない。銀行へ持ち込む際にはいらぬ手数料を取られることもあろうし、不渡りにでもなれば目も当てられないことになる。相手が見知らぬ旅行者ともなれば、警戒こそすれ、素直に応じるはずもない。
 そこのところを、この青い目の男は全く理解していないと思われた。
 だが、いずれ御者が首を縦に振るだろうということも、ハロンズにはわかっていた。
 見目の良いこともさることながら、あの穏やかな口調と親しげな振る舞いに接した者は、たいてい“参って”しまうのである。どんなに強固な意志で自身を固めようとも、気がつけばするすると伸ばされた手を握り返していることになる。
 そういう意味では、ラクタス・オールランドという人物は他人の心を解きほぐす天才なのかもしれなかった。
 「まあ、仕方ねえかなあ・・・」
 案の定、よろよろと小切手を受け取ろうとしている御者を、ハロンズは鋭い目で一瞥した。
 鼻息も荒くベンチから立ち上がるや否や、問題解決に向けてつかつかと二人に歩み寄った。
 「オールランド殿。辻馬車相手に小切手とは聞き捨てなりませんな。100リルは私が出すとしましょう」
 「え?しかし・・・」
 「これも案内のうちと思っていただいて結構。いや、お任せあれ」
 懐からずいと財布を取り出すや、ハロンズは丁寧に紙幣を数えはじめた。
 25リル紙幣できっちり4枚。それを惜しげもなく差し出すと、求めていたものを手にした御者の表情も一変した。
 「こ、こりゃ!話のわかる旦那がいてくれて助かりました!これで、帰りに酒場へも行けるってもんです!」
 いいのかい?といった青い目に頷いてみせ、ハロンズは誇らしく胸を張った。
 「いらぬ気苦労はないに限りますからな。労働の後は誰でも、心置きなく酒をやりたいものです。明日のためにも、一日の終わりに憂いがあってはいかんのです」
 「憂い・・・とは、私の小切手をさしているのかい?」
 心外だとでも言うような言葉に、ハロンズはくい、と片方の眉を上げた。
 「言うに及ばずです!オールランド殿、どうも、あなたはこういったことに無頓着でいらっしゃるようだ」
 「どうしてかな?私の当座預金は空ではないし、もちろん、銀行取引が停止しているわけでもない。何も問題はないはずだが・・・」
 細い顎に人差し指をかけ、ラクタス・オールランドは心底わからぬと言う風に考え込んでいる。その様子に何やら不穏なものを感じ取ったハロンズは、まさかと思い、ひとつの質問を投げかけた。
 「では、ここに花売りがいて、あなたはバラを一輪買い求めたとしましょう。だが、あなたは現金をもっていなかった。どうしますかな?」
 「小切手にサインをするね。間違いない」
 ハロンズは、不躾を覚悟できりりと睨んだ。
 王都エダンタールでオールランド商会という事業所を運営している男である。派手ではないが、青年事業家として地道に実績を積んでいると、リィ男爵も言っていた。実際に会えば人柄も良く、実に気持ちのいい人物であることもわかった。
 だが、筋金入りの、この世事の疎さはいったい何としたことであろうか!
 しかも!・・・と、ハロンズは彼が現金を全く持ち合わせていない理由を思い出し、ぐぐっと拳を握りしめた。
 汽車の中で知り合った女性に上着を貸し与え、そのまま放置してきたというのだ!
 しかも、財布や懐中時計もそのままに、である!
 (いったい、この男は・・・!)
 折に触れ、感じてきた戸惑いは、ここに至って頂点に達した。
 そしてそれは、ハロンズの胸の中にひとつの決意を生まれさせていた。
 ラクタス・オールランドの不憫とも言えるこの常識の無さは、もはや人間的欠陥と言ってもいいだろう。
 間違った認識を改めない限り、彼の社会生活はいずれ破綻するに違いなかった。
 いつか必ず自ら足を踏み外し、転落人生を歩むことになると若き弁護士は考えた。 
 となれば、友人である自分こそが、彼を正しい人の道へと導く必要がある!
 それこそが、真の友人にふさわしい“あり方”というものだろう。
 不可思議だった出会いは、今や天啓にも似た確信へと変わっていった。
 そして、心熱き男の胸にすっきりと落ち着いたのだった。


 *  *  *


 ポトワールの町を抜け出た後、馬車は一路西へと進んでいた。
 次の村までは、二時間あまり。途中の休憩を入れても昼前迄には到着すると、御者は二人に伝えた。
 実際には、そこから更に西を目指し、三つ目の村が最後の中継地となる。
 汽車が出ない以上、移動手段は馬車か徒歩に限られたが、遅くとも明日中にはタールへたどり着く予定であった。
 走り出せば、さして見るものもない景色に目をやることもなく、男達はさっそく議論を交わし始めた。
 政治、経済、宗教など、それぞれ多岐に渡った分野で互いの知識を吸収すべく意見が交えられた。
 様々な質問が飛び交い、納得がゆかねば最後まで論じ合い、どちらかが折れるまで続けられる。狭い室内は、互いの熱でしばしば息苦しくなり、時折窓を開け放って空気をいれかえねばならないほどであった。
 そうして、幾度目かの議論が終結した頃、ハロンズが急に言葉を濁しながらラクタスに問うてきた。
 「オールランド殿。少し偏った見方かも知れんのですが、答えていただきたい。私はあなたがどうして“異能者”なる者に関わるのか、さっぱり理解できんのです。彼らは世間から見れば、物珍しい特技の持ち主でしかない。肉体や感覚の一部が、大多数の人間より少しばかり勝っているだけのことです。リィ男爵は、あなたがそういう者たちを保護していると言われる。私財をつぎ込んで彼らに住むところを与え、貧しい者には無償で教育まで施しているとも・・・」
 ハロンズは知らず、身を乗り出していた。最初から聞くつもりもなかった問いではある。
 出会う前は、単なる興味や道楽だろうと考えていた。
 だが、互いに知り合う時間を得た今では、些細だった疑問がなぜかひどく重要なものに思えていた。
 「だが、世の中には、もっと救いを必要としている者たちが大勢いるのですぞ。勝っているどころか、普通の暮らしさえできない者たちが、なんとたくさんいることか。目の見えない者、歩けない者、原因不明の病で苦しむ者・・・順序から言えば、助けるべきはまず、そういった不幸にして不運な人々なのではないですかな?」
 ハロンズはじっとラクタスの青い瞳を見つめた。
 こんな時でありながら、まるで最高級の宝石のようだと感心する。鮮やかな青はどこまでも青く、静かな光を湛えてハロンズを見返していた。
 やがて、その瞳がかすかに瞬き、男の唇の端に楽しげな笑みが浮かんだ。
 「君の言うことは正しい。不幸不運を基準にして救うべき人間を選べと言うのならね。世間もそれを望んでいるだろうし、私もそう思う。何も間違ってはいないよ」
 「そうはおっしゃるが、しかし、現にあなたは・・・」
 待ちたまえ、とラクタスの片手がハロンズの焦りを制した。
 「君は間違ってはいない。が、とんでもない捉え違いをしている。話のステージへ上がる以前からね。実に最初の時点で、君は大きなミスを犯しているんだ」
 「ミスですと?この私が?単に事実を述べているにすぎんはずですが・・・」
 「そう、引っ掛かりがあるとすれば、まさにその点だ。君の言う事実とはいったいなんだい?よく考えてみたまえ」
 「ふむ・・・」
 それでは、と瞑目して”事実”の意味を探り始める。しかし、思考に及ぶ前に思わぬ言葉が継ぎ足された。
 「ただし、回答は一度きりだ。君のミスがなんなのか。答えられなければ、この話はここで終わりだ」
 「それはまた・・・意地が悪いですな。なぜ、今回に限って?」
 「これは私の個人的且つ、繊細な事情をも含んでいる。曇った目で他人から詮索されたくはないんだ」
 「む・・・」
 穏やかにもぴしりと言い切られ、ハロンズは暫し無言で時を過ごした。
 ラクタスの言い分はもっともで、例え答えられなかったとしても、その事で態度を変えるような男ではない。だが、本当に言いたくなければ、このような事を言い出すはずもないと思われた。
 どこか試されているような気分に陥りながらも、ハロンズはなんとかして答えを見出そうと努めた。

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