・・・
 身体が揺れている。
 ・・・何?
 まどろみの中で、アテカはぼんやりと考えていた。
 ゆらゆら ゆらゆら
 どうして揺れているのだろう?

 目覚めてゆくにつれ、今はもう耳に馴染んだ大きな音が聞こえてきた。
 鉄と鉄が火花を散らして擦れ合う、規則正しい響き。
 そして、全身に伝わる心地よい振動。
 ああ、そうだ。
 『てつどう』だ。
 あたし、それに乗って・・・いるんだった。
 おぼろげに納得したとたん、再び意識は急降下し始めた。
 車窓から降り注ぐ日差しがポカポカと気持ちよく、眠気に誘われて仕方がないのだ。
 こうして座席でうとうとすることにも、すっかり慣れてしまっている。

 (ん・・・?)
 しかし、今度の揺れはいつになく大きいようだった。
 半ば強制的に覚醒させられたアテカは、ぼんやりと自分の肩に添えられているものを眺めた。
 それが人の手だと認識するまでには少し時間がかかったのだが・・・。

 「大丈夫かい?」
 問いかけは優しく、声は低かった。
 どこの誰なのか。
 気がつけば、目に前に見知らぬ人物がいた。
 「やっと目が覚めたね。よかった」
 「・・・?」
 「夢に泣かされていたんだ。わかるかい?」
 気さくな笑顔を向けていたのは、とんでもなく青い目をした若い男だった。
 それと意識した瞬間、アテカは小さく身を強張らせて思い切り視線を逸らせていた。
 「ああ・・・失礼」
 その様子を感じ取ったのか、男は非礼を詫びながら手を戻した。
 そうして、そのまま何も言わず向かいの席に静かに腰を落ち着けたのだった。

 (あ・・・)
 いつの間に、どこの駅で乗車してきたのか?
 状況の飲み込めないアテカは最大限にまで跳ね上がった鼓動を抑えつつ、そっと周囲見回した。
 すると、先程まで空席が目立っていた客車に、ちらほらと乗客の姿が見受けられた。恐らくは、居眠りをしている間にどこかの駅に停車していたのだ。おまけに人の気配にも気づくことなく、のん気に眠り呆けていたらしい。
 (嫌だ・・・あたしったら!)
 一気に顔に熱が上がった。
 一時限りの同乗者とはいえ、ぐっすりと寝込んでいるところを見られてしまったのだ。恥ずかしさで顔どころか全身にまで火がまわりそうだ。
 だが、思わず手で顔を覆ったアテカは、その頬にひんやりとした涙の跡があることに気がついた。
 拭った指先がわずかに濡れてもいる。
 そう言えば・・・と、徐々に起き抜けに聞いた男の言葉がよみがえった。
 泣いていた、と言っていただろうか?夢を見て、泣いていた・・・と。
 アテカは不思議に思って眉を寄せた。
 寝入ってはいたが、実のところ夢など全く覚えていない。涙するほどの夢であれば、その片鱗くらいは記憶に残っていそうなものなのだが。驚いたせいで、 すっかり忘れてしまったのだろうか?いずれにしても、目の前の親切な乗客が見るに見かねて悪い夢から救い出してくれたことは事実らしい。
 にもかかわらず―――
 アテカは胸の前に置いた手を、ぎゅっと握り締めた。
 自分が男に対してとった行為を思い出したのだ。気遣いを示してくれた相手に、礼を述べるどころかそっぽを向いてしまったのではなかったか?その上、謝罪の言葉まで言わせてしまった・・・。
 (あ・・・謝らなくては)
 気分を害していないことを祈りつつ、アテカはそっと顔を上げた。

 すると男は―――意外にもゆったりとした雰囲気で窓の外を眺めていた。
 外套と分厚い本を脇に置き、窓の縁に軽く肘をついてくつろいでいるその姿は気楽な旅行者のようにも見えた。若者らしいクリーム色のスーツを着用し、その 下には同じ色のベスト。白いドレスシャツの喉元には黒く光る宝石を留め具とした細長いリボンのようなタイが締められている。
 癖のない髪は明るい黄金色で、午後の日差しを受けてきらきらと輝いていた。まるで小さな男の子のように肩の辺りまで伸ばしているのだが、それが違和感も なく不思議と似合っていると思えた。つい最近聞き覚えた『洒落ている』という言葉が頭に浮かんだが、恐らくはこのような人物のことを言うのだろうとひとり 納得する。都会では男も女同様、装いには気を使うものなのだ。
 そう思いながら、ふと自分の身なりに目をやったアテカは、ほつれの目立つ袖口をそっと指先で隠した。
 身につけた緑色の綿のドレスも肩に羽織ったショールも、村を出る時にはまだましだった。それが、旅を経た今では当然ながら、見事なくらいにくたびれてしまっている。
 スカートの裾は雨の日に跳ね上げた泥があちこちにシミをつくり、ブーツは擦り切れて傷だらけだ。肩に流した黒髪に目をやれば、すっかり艶をなくしていることにも気づいてしまった。とても二十歳を前にした年頃の娘とは思えない・・・。
 思いもかけず目の前に洗練された人物が現れたことで、アテカはいつになく自嘲気味になっていることに気づいた。目的地へ着くまでは、余計な出費など考えられないというのに。
 そんなことを考えていると、男が急に立ち上がった。
 頭上の網棚へと腕を伸ばし、そこに置いてあった大きな皮製の旅行カバンを引きずり出そうとしている。どうやら、次の駅で降りるようだ。
 「ああ、あの!」
 焦ったアテカは大声を上げた。
 とたんに周囲の乗客が視線を寄せる。驚いて手を止めた男の青い瞳が、半分腰を浮かせたままのアテカを見下ろした。
 「さっきは・・・ありがとうございました。起こしていただいて・・・」
 視界の隅で、男の表情がふっと和むように崩れるのが見えた。重そうなカバンが軽々と持ち上げられ、足元へと到着した。
 「少し心配になっただけだよ。見たところ、独りのようだったからね。どこから来たんだい?」
 思いがけず返ってきた問いに、頭の中が忙しく廻った。
 「え、え・・・と、クランベルです。その山奥のドーラという村から・・・東ナダール地方です」
 国の最果てに位置するような村である。男が知っているはずもないと思いながら、せめてと大まかな所在を付け加えた。大陸一大きいといわれる、このマセル王国の遠い東のはずれである。
 「遠くてわからないと思います。ほとんど誰も来ない村だったから。でも、とてもいいところでした」
 山裾の小さな村。白い花を咲かせた野や、眩しく光る小川が懐かしく思い出された。
 「驚いたな。東ナダールといえば、隣国との境じゃないか。まさか、本当に独りで旅してきたのかい?」
 「ええ。お婆さまの遺言なんです。タールへ行くようにと」
 「タール?」
 男は不思議そうに形のよい眉を寄せた。
 「勿論、身を寄せるところはあるんだろうね・・・親兄弟とか?」
 「いいえ。一族はもうとうにばらばらになっていて誰もいません。でも、街へ行けば何とかなると思います。お金もまだ少しなら残っていますから」
 祖母のリオネラが亡くなってから旅費を探して家捜ししたところ、驚いたことに貴金属を詰め込んだ小箱を発見したのだった。色様々な宝石を嵌め込んだ指輪や首飾りといったもので、アテカの寝台の奥にひっそりと置かれていたのである。
 驚きはしたものの、感謝をしながらその中から比較的小粒なものだけを幾つか選び出し、あとは残った村人たちに分け与えた。そして、行く先々の街で少しずつ換金しながら今日まで来たのだった。
 出費を最小限に止めるためも、旅の移動は全て徒歩かもしくは乗合馬車を利用した。
 だが、三日前、エベロンという大きな街で、『てつどう』なる乗り物が突然目の前に現れたのである。しかも、タールまで直行するという夢のような話を聞き、思い切って固い懐を開けたのだった。
 「これに乗れば、終点がタールだと聞いたんです。夕方には着くはずなんです」
 アテカはここに至った経緯を、簡単ではあるが男に説明した。男は熱心に聞き、時折頷いたりもした。考えてみれば村を出てからこれまで、これほど長く誰かと話したことなどない。たまに興味本位で色々と尋ねてくる者もいたにはいたが、この男はまるで違うように思えた。
 その瞳はアテカが初めて見るような深い青であり、輝きのあまりの鋭さに思わず目を逸らさなければならなかった。自分を含め村の全員が琥珀色の瞳だったせ いか、じっと見つめられるとなぜか落ち着かないのだ。それでも次第に話すことが楽しくなったアテカは、限りある時間を惜しむかのように様々なことを話して 聞かせた。
 話の合間に窓の外に目を向ければ、相変わらずのどかな田園地帯が続いていた。乾いた風が肌に心地よく、日差しも柔らかだった。
 やがて、前方に小さく街並みらしきものが見え始めた。
 ガクンとひとつ速度が落ちて、停車が近いことを知らせた。

 「いいかい。大事なことだから、よく聞くんだよ」
 ふいに男が身を乗り出し、諭すように言った。
 「まず、君の目的地はタールだ。間違いないね」
 アテカは返事の代わりに頷いた。
 「君はタールへ行かなければならない。お婆さんの遺言だからだ。だが、そこに身寄りはなく、働くあてもない。確かにこの汽車の終点はタールだが・・・君はその街がどんな街か知っているのかい?」
 男の言わんとするところが、アテカにはよく分からなかった。
 どんな街?
 何か特別な街なのだろうか。
 「タールは廃れた鉱山の街だ。昔は鉄の採掘で賑わったらしいが、今では掘り尽くされてしまって経済は悪化している。鉄鉱会社の多くは倒産して、出稼ぎに 来ていた労働者も殆どが見切りをつけて出て行ってしまった。街には仕事がなく、治安もよくない。君のような娘が独りで行くような場所じゃない」
 「え・・・」
 「タールとはそういう街だ。お婆さんに何か理由があったとしても、考え直した方がいい。そうじゃないかい?」
 「そんな・・・」
 思ってもみない言葉を突きつけられ、アテカは言葉を失っていた。
 タールがどんな街かなど、今まで考えたこともなかったのだ。ただ、祖母の話す街の風景は美しく、まさか今はそのような事情があるなど、思いもよらない話だった。
 だが、その内容は当然のようにアテカの心を不安にした。
 男の態度は真摯であり、とうてい嘘をついているようには見えなかったからだ。何かしら、とんでもなく恐ろしい街だということだけはじわじわと理解できた。理解できたが・・・
 「でも、タールはお婆さまにとって、忘れられない街なんです。だから、せめてお婆さまの代わりに私が行って、見てあげたいんです」
 祖母がまだ若い頃、一度だけ村を下りたことがある。そのときに訪れた街がタールだったとアテカは聞いていた。そこで知り合った青年と恋に落ち、母を身ご もって村へ戻ったのだという。 その母もアテカを生んですぐに亡くなったが、それからは祖母が優しい母であり、また手厳しい教師でもあったのだ。
 「思い出話に、いつも聞いていたんです。いつも本当に懐かしそうにしていました」
 「だが、あの街では諍いが絶えない。貧しいだけじゃなく、危険なんだよ」
 「かまいません」
 その時、アテカは気づいた。
 本当は、行く先がどんなところだろうとかまわないのだ。
 愛する祖母が懐かしんだ街。そのことだけで充分なのだと。
 唯一の肉親がいなくなった今、アテカにできることは、せめて母となってくれた人の思い出を探すくらいだった。
 その他に理由などあるはずもなかった。

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